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第5話

 郎威軍(ラン・ウェイジュン)は、茂名路(マオミン・ロード)に出て、北に向かって歩き出した。時刻は、午前11時過ぎ。  近くに有名な24時間営業の美味しいレストランがある。人気の広東飲茶のレストランチェーンで、上海の各所で見かける。  特にこの先にある支店は、日系のホテルが近いので、観光客はもちろん、それほど高級な店ではないので、ファミリー層など地元の人間の間でも大人気で、時間によっては満席で待たされることも多い。  だが、今ならランチタイムにはまだ早いので、人気レストランでもまだ並ばずに入れるだろう。  店に着くと、郎威軍の予想通りに、まだ席は空いていた。制服を着た店員に窓際の席を案内され、威軍は4人席に1人で座った。  メニューから、本日の野菜炒めと海老蒸し餃子、スペアリブを注文する。飲物は少し迷ったが、特には注文せず、店が提供してくれるプーアル茶で済ませることにした。  注文を済ませるとホッとして、窓の外をぼんやりと眺めた。  歩道を行く女性たちが、アンニュイな表情を見せる郎威軍の美貌に気付き、振り返ったり、立ち止まったりしていた。が、当人はそれに気づくことさえない。 「連れない美青年」。アンドロイドと呼ばれる郎威軍は、まさにそれだった。  やがて、無料のプーアル茶がポットで出されたが、一口飲んで、郎威軍はその柳眉をそっと寄せる。分かってはいたが、やはり飲みなれた高級茶葉とは比べ物にならない。  加瀬志津真と付き合っていると、こういう「不便」が生じて困る。  加瀬は食に関してこだわりがあり、単純な値段ではない「価値」、つまり味で評価する。だから加瀬といると食べ物にしろ、飲み物にしろ、低価格でも本当に美味しいものばかり口にすることになる。  なので、たまにこんな風に大衆的な店で出される、香りの飛んだようなお茶を出されると口に合わずに不快な気持ちになるのだ。 (この店、料理は美味しいのに、なんでこんなお茶…?)  腑に落ちないまま、威軍は料理を待った。  コンコンコン。  その時、窓ガラスが外から叩かれ、驚いて郎威軍は我に返った。  傘の柄を使ってガラスを叩いていたのは、満面の笑みを浮かべる部下の百瀬(ももせ)茉莎実(まさみ)(シー)一海(イーハイ)だった。  まるで、2匹の子犬が遊んでくれと尻尾を千切れんばかりに振って来る一途な眼差しで、2人の部下は威軍を見上げていた。おそらく、この近くの日系ホテルで仕事中か仕事上がりで食事に来たのだろう。    言いたいことは、分かっていた。仕方なく2人の意図を受け入れて、郎威軍主任は頷いた。許可をもらった2人は、予想通り、転がるように店内に駆け込んできた。  気が付けば、店内は昼食時で混み始めたところだった。 「幸运的!(ラッキー!)」  百瀬と石一海は、嬉しそうに威軍のテーブルの向かい側に並んで座った。 「好运!(運が良かった!)」  なるほど、店の前にはすでに行列が出来ており、郎主任との相席が出来なければ最後尾に並ぶ羽目になっていただろう。 「花園飯店(ガーデンホテル)で、打ち合わせだったんですよ」  (せわ)しなくメニューを見ながら、百瀬が言った。 「でしょうね」  分かり切っているとでも言いたげに、郎主任は言葉少なく言った。 「对不起…(すいません)、麻烦吗?(ご迷惑でしたか?)」  主任の無表情が不機嫌からなのかと、石一海は心配そうに様子を窺うが、百瀬の方は慣れっこなのか、さっさと注文を始めていた。  呆れた様子の威軍だったが、心配そうな一海に、黙って、気にしていないと言うように小さく首を横に振った。  注文は、メニューが書かれた用紙にチェックを入れる。威軍が来店した時のように、店員に直接注文することも出来るが、今のように店が混んでくると店員は相手にもしてくれない。 「焼鴨(ローストダック)、鮮蝦腸粉(海老の香港風生春巻き)、…と、石くん、チャーハンと焼きビーフンのどっちにする?」  中国語の途中で、日本語で聞かれ、石一海は戸惑った。 「え~と、ボクは酸菜魚(白身魚と漬物の辛煮)…」 「アカン!アレ、辛いし、キライやもん」  一応先輩である百瀬に言下に拒否されて、石一海は泣きそうな顔になる。  一方、思わず百瀬が発した日本語の関西弁のイントネーションが、誰かと重なって微笑ましく思った郎威軍が思わず口を挟んだ。 「私も酸菜魚を食べるから注文しなさい。百瀬は、マンゴープリンを付けてあげるから、文句を言わないように」  その表情は相変わらず読めないが、なんとなく主任の機嫌が好いような気がして、2人の部下もホッとした。 「チャーハンとビーフンも両方頼みなさい。3人でシェアするならちょうどいい」  この分だと運よく並ばずに席に着けただけでなく、食事代も主任が払ってくれそうだと、2人の部下は顔を見合わせてニンマリした。 「饮料呢?(飲物は?)」  主任に促され、2人は同時にメニューに目を落とす。その間に、郎主任が注文したカイラン炒めが来た。 「我要可乐(ボクはコーラ)」「柠檬冰茶(アイスレモンティー)」  飲物もそれぞれ選んでいるうちに、先に郎主任が注文していた餃子やスペアリブも出揃った。入れ替わりに注文シートを店員に渡し、それらの料理を待つ間に、先に来た料理を食べることにした。 「吃吧!(食べなさい)」  主任に勧められ、百瀬と石一海は大喜びで、上司が注文した料理に遠慮することなく箸を伸ばした。 (こいつら、本当に無邪気だなあ)  郎威軍は、楽しそうな2人を不思議そうに見つめていた。

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