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第9話

 地下鉄を降りた途端、夕食は外で済ませても良かったな、と郎威軍は後悔した。部屋にいる時間が長いほど、加瀬の事ばかり考えてしまうはずだ。  近くには、デパ地下のフードコートや人気のレストランもいくつもある。外で時間を潰して、恋人が隣に居ない寂しさを紛らわせ、1人を痛感する部屋に戻ってからは、軽くワインでも飲んで、すぐに眠りについてしまいたい。そんな風に考えないでもなかったが、今さら1人で外で食事をする気にもなれず、威軍は主のいない部屋へ戻ることにした。  実際、こんな風に少し孤独に憂う美青年が1人で食事をしようものなら、どんな危険が迫るかしれない。好奇心旺盛な欧米人が多いこの街で、エキゾチックなアジアの美青年との一夜を楽しみにしている観光客も少なく無いのだ。  子供の頃から優等生で、今は恋人一筋の威軍は、仕事でもない限り、夜に1人で出歩くことなどめったにない。だが、たまに仕事の都合で外国人観光客の多いクラブやバーの多い通りを1人で歩いていると、面倒なほどに声を掛けられることがあった。もちろん、そんな誘いに乗る威軍ではなかったが、常に警戒は必要なのだ。  賑やかで、観光客だけでなく地元の人間も多いこの淮海路周辺では、そんな心配は不要だったが、威軍は習慣通り、日が暮れる前には自宅に戻る方を選んだ。  時間は午後4時。日本はもう午後5時で、加瀬は実家でくつろいでいる頃だろうか。そんなことを考えながら、威軍はエレベーターに乗りこんだ。  1人エレベーターの中で冷静になると、日本円で1万円以下のシルクのトップスは安いと思ったが、百瀬への「ご褒美」のせいで1万円を超過していた。  それでも、日本で購入すれば倍の値段でも買えないかもしれない特級品だ。きっと関西人の加瀬部長に値段を言って聞かせたら驚くに違いない。 (また、彼の事ばかり考えてしまう…)  珍しく頬を緩め、部屋の前に立ち、カード―キーで開錠する。  だが、一歩部屋に入って、すぐに威軍は違和感を覚えた。  出掛ける前と、何かが違っている。直感的にそう思った。  気が付くと、奥のリビングのライトが点灯している。外出前には全てを点検して、明かりなど完璧に消して出たはずだ。不審に思いながら奥へ向かうと、威軍は信じられない姿を目にして立ち尽くした。 「お帰り~」  膝の上に乗せた雑誌をテーブルに戻しながら、日本にいるはずの加瀬志津真はニヤリとした。 「遅かったな。買い出しか?」  悪戯っぽい、彼らしい笑みを、まだ信じられない思いで見つめている郎威軍に、加瀬はリビングのソファーに座ったまま、手を差し伸べた。 「おいで」  その優しい、擽るような声に、我に返った威軍は、急いで手にした荷物をその場に置き、体一つで恋人の胸に飛び込んだ。 「どうして?」  しっかりとハグしてから、離れて顔を見合わせて、威軍は想像を超えた事態に困惑して訊ねた。 「お前のあんな声、聞かされて、放っておけるわけないやん」  ニッと笑うと、志津真は(かす)めるようなキスをした。 「でも…」  この時間にここに居るということは、関西国際空港を昼の便で出国したはずだ。昨夜は東京のホテルにいたのだから、今朝関空に移動して、ほぼそのまま上海に戻ったのだろう。久しぶりに実家に帰る予定だったはずだが、立ち寄る時間など無かったのではないだろうか。 「ご実家には?」  心配そうな威軍を励ますように、志津真は明るく笑った。 「始発の新幹線で新大阪まで行って、姉貴に迎えに来てもらって、関空まで送ってもろたんや。オカンも来てたし、車の中と空港で久しぶりに話せた」  何でもないことのように話すが、数年前に父親が他界して以来、結婚して実家に近い場所に住む姉が居るとは言え、母親は現在1人暮らしで、自慢の1人息子の帰宅を心待ちにしていたはずだ。  威軍もまた、たまに実家に帰ると面倒になるほど家族が大騒ぎし、居たたまれず逃げるように上海へ帰ることになるのだが、帰りの飛行機の中ですでに次に帰省する時のお土産の算段をしていたりする。実家とは、家族とはそういうものだ。  それは、志津真と母も同じだろう。 「気にするな。オカンより、姉貴より、今はお前が一番なんや」  それ以上は何も言わずに、志津真は威軍を抱き寄せた。 「会いたかった」 「私も…」  2人はしっかりと抱き合い、やがて堪え切れないように、熱く、濃厚な口づけを交わす。  わずか数日会えなかっただけで、これほどに渇望するものなのかとお互いに驚きを隠せない。  失っていたものを取り戻したことを実感すると、2人は落ち着いて見つめ合い、満たされた眼差しで微笑み合った。 「お土産あるで」  そう言うと、志津真はテーブルの下に置いていた大きなショッピングバッグを2つも取り出した。 「関空で、ずいぶん買い物したんですね」  笑いながら威軍が覗き込むと、大きな袋の1つは特別なお土産ではなく、日本では誰もが知っているような普通のお菓子ばかりだった。 「みんな、喜びますよ」

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