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薄荷色が綺麗なわけ

※  未だ夜は明けず、逆さにしたL字で大きな窓が一面のこの部屋は外から射し込むうるさい光で十分な程に明るい。光熱費には優しいが、いささか目には当たりがきつい。  震えが治まった男は疲れ切っているのかぐったりとしていて、あの波止場でなにが起きていたのか余計に気になった。気にしては負けだとわかってはいても、頭が勝手に時間外に働いてしまう。  疲労で力が入らない所為なのかと、素っ裸にしておくわけにもいかず服を着せたが抵抗がない。思えばシャワーの時点でも、なんの抵抗もなかった。この時点で察した。この男がどういう環境にいたのかを。  とんでもないものを拾ってしまった。よく言えばその道のプロであろうが、言うまでもなく道徳心が先に立つ。男は「捨てた」と言った。誰も探さないとも。  疲れ切った男は床で丸まって眠った。カーペットの上と言っても、安物で厚みもたかが知れている。それで構わない環境にいたのだろう、それで当然に過ごしていた時間があるのだろう。  誰も探さないのだとしたら、この男はどうするのだろう、どこに帰せるのだろう。  疲れ切った脳をそれ以上使う気にもなれず、簡素なベッドに横たわると、いつの間にか〝朝〟を迎えていた。  自分にとっての朝は一般的なものとは少し違って、夜を迎える前の、もうすぐで暗くなる頃を意味して大分経つ。いつも通りに、自分にとっては規則正しく時間を過ごしたわけではあるが、瞼を開いたのと同時に、今日はそれではならなかったことに気が付いた。  眠る前までは床に転がっていたあの男が、足元にへばりついていた。悪い言い方ではなく、されている身としては、そう受け取る他になかった。横たわる自分の足に覆いつくように伏せているのだ。  そして足を通じてわかる程、男が腹を空かせているのも、わかった。空の腹が地響いて、骨に伝わる。 「おい」  声一つでは身動きもせず、もう一度続けて同じ声をかけてみるが、やはり動かない。  まさかひもじくて気を失うわけも昨日今日であるまい。けれど、そうか。眠ってしまう前に考えていたものを思い出し、更に派手なスーツの男が発していた言葉を、思い出した。 「ハッカ」  ひもじさで伏せていた上半身がむくりと持ち上がり、思った通りにこちらを見た。  それはこの男のそれまでの〝素性〟が、明らかになった瞬間だった。寝ぐせであちこち跳ねた頭が、そのままこちらに進んで来た、その瞬間が。 「おい、おい」  男は、まるで動物がする仕草そのもので、頭を擦りつけてくる。やけに人慣れした野良猫が手や足に擦り寄るようなあの仕草で。制止の声などお構いなしに進み続ける頭は遂にこちらの頭部まで辿り、跳ねた寝ぐせが皮膚に擦れて音が鳴った。 「おい、聞こえてんだろ、やめろ」  もういっそ覆いかぶさる姿も重みも動物とはかけ離れているはずが、今にも喉を鳴らすか尾を振っているようにすら見えてくる。  押し離して、やっと頭が離れたものの体からは降りようともしない。持ち上げるだけ軽いわけでもなし、押しどけて自分の体を引きずり出すのがやっとだった。よく見ればそこまで小さいわけでもない。この大きさの人間を、よく運んだものだ。  テーブルに置いていた腕時計は夕方十六時をさしていて、久々によく眠った気もするが、眠りすぎて体が怠い気もする。年々、長時間眠るのが辛い。良い睡眠時間の長さが、探っても探っても見つからなくなっていた。  この男の年代は二十代だろう。十代には、流石に見えない。それだけはどこか救いのような気がしていた。二十代でその環境にいたのなら、半分は確実に、自らの意思か身から出た錆であろう。  後付けで取り付けらえたキッチンは本当に小さなもので、そもそも自宅で自炊することもない身としてはそれだけで十分だった。冷蔵庫の中に調理出来るような食材は殆ど入っていない。そろそろ賞味期限を確認しなければならない卵が三つと、パックの中に四つ残る小さなトマトだけが、その順番を待っているのみだった。  適当に、自分が摘まめるものと、この、ひもじさで腹を鳴らしている男の〝餌〟だけでも作らなければならない。いつかに冷凍した食パンを、解凍もせずにフライパンに乗せ、適度に焼ける頃、その横に卵を割った。この小さなキッチンでの一連、男はベッドで未だひもじく、項垂れていた。  三枚しかない皿の一つに、焼いた食パンに卵を乗せて、端になけなしの野菜の赤を二つ、男が項垂れるベッドの上に置いてシャワーへと向かった。  昨夜、いや、明け方、男を流しただけで浴びた気になっていた。頭をはっきりとさせる為にもいつもより長く、浴びていたつもりだった。  しかし、終えて出てみると男はまだ項垂れたままで、皿の上もそのままになっていた。こちらが項垂れてしまいそうな気分で、折角のシャワーも無駄になった気分だった。 「食えよ」  そこまで鳴らしてるのなら。  極自然な考えで発したが、男を見下ろして、また思い出した。そうだった、こいつは、そうだったんだ。もしかしたら、関係性が成るまでは、自力でなにかすることもないのだもしれない。考えて、少し、ぞっとした。 (どうする……)  皿を手に取り、ベッドに腰かけると男が顔をもたげた。腹が減って気力のない表情で、空ろにこちらを見ている。 (どうする)  トマトを摘まんで、差し出すと、男は当然のように、口にした。

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