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青いイッタラの人

※  ここにいるようになってもう一か月は余裕で過ぎてしまった。思った以上に居心地はいいし、ぼくにとってはびっくりするくらい優遇されていて、少しでもお返しをしようかと思う度、多分、なにもしないことがお返しになるんだろうなといきついてしまう。  男の人は、なにもしないぼくが良いみたいだった。セックスの時だけでもなく、日常的に。  なにもしない、なにも言わない。多分、そういうのが煩わしい人なんだろうとわかる。全く、それを求められないから。  毎日男の人を見送って、帰りを待って、ご飯を食べて、洗われて、日によってはしてから寝て、なんの負担もない。  でもちょっとだけ、男の人が仕事でいない間に気づかれない程度にごみをまとめたり、掃除をしたりはした。男の人は本当に、なにもしないから。  もしかしたら男の人はぼく以上に生活能力が低いのかもしれない。ぼくは長いことそれを必要とされなかったからになるけれど、男の人はどう暮らして来たんだろう。ぼくが手を出すくらいには、なにもしないのに。  あの、青いイッタラのお皿の人かもしれない。  男の人はなにに対してもこだわりがないようだった。部屋の中に飾るものはないし、テレビもオーディオもない。キッチンには箸もないし、お皿は三枚、コップは二つ。色味にこだわっているようにも見えないけれど、何故か服は、こだわりがあった。系統的に、全体的にモードなものばかり。仕事がそうなのかもしれないけれど、こだわっているならきっと、洗濯物を溜めてテーブルに山にしていくはずはないと思った。  きっと、青いイッタラのお皿の人だ。男の人の、そういう所を面倒見ている人がいるはずだ。  こだわられた服を男の人が着ると、そこそこ別人になる。それまで寝顔よりも眠い顔で、ちょっと冴えない感じなのに、着替えて、髪を整えたら、もう、ちょっと違う人。  青いイッタラの人は、きっとそれをわかってる。きっと、青いイッタラの人は恋人か、元恋人か、男の人のことが好きな人。  現恋人だとしたら、ちょっとぼくの状態がよくわからなくなってくるけど。  どんな人だろう。センスが良さそうだから、特大の美人かもしれない。  美人で、少し思い出してしまった。  ぼくを最初の飼い主に引き渡すことになってしまった人。ぼくの、ほとんど最初の人。  リョウジ君に捨てられた日、クラブで見た、元恋人。  初めて人を好きになったのはもっと、きっとずっと前だった。初めてなのが全てその人、とはいかなかったけれど、それでも確実に感情も体も触れ合ったのはその人が初めてだった。  十五歳の時、その人と会ったのは夜のコンビニエンスストアのトイレでだった。どうしてそんな場所で出会ったのかは、正直あまり良い出会いではなかった所為でしかなかった。  ぼくがトイレに入ろうと向かった時、表ドアを開けた瞬間に人が咳き込む声が聞こえて、けれど女性用のも、男性用のも扉は開いたままだった。扉を開けたその後ろから聞こえたのかもしれない、そしてそのまま進んで、彼と出会った。  男性用のトイレで床に座り込んで、便器にしがみつくように覗いている。床に立てた膝が滑って、力んだ足が浮く。聞こえる音からどうも吐いているわけではなさそうだったけれど、出せないものを吐き出そうとしているように思えた。  そうしたのが、それが教えだったのかと聞かれてもはっきりとそうではないと言えるけれど、ただ、単に見過ごせなくて「大丈夫ですか」と声をかけたのと同時に背中に手を置いた。そうしろとは教わっていないけれど、ぼくの体はそうやって動いた。  背中をさすっても、暫くは出ないものを吐き出そうとする背中が浮き、足が力む。何度か繰り返して、その頻度が減って、その内荒い呼吸だけが残った。覗き込むようにしていた便器からも離れて、踵に座り込むような姿で肩を上下に揺らす彼との視線が合ったのは、もうこの状況が続いて随分と経った頃だった。  苦痛に歪む様はとても痛々しいけれど、それも絵になる程、綺麗な顔をしていた。一瞬ではとても女性的で、もしや見間違っていたのかもしれないと思った程。でも背中に触れている手には下着の存在を感じなかった、やはり、男性だった。  彼はゆっくりと瞬くばかりで話す声も出ない、そんな様子が伝わって、トイレットペーパーを引きちぎって彼の口元に当てた。中学をあがったばかりのぼくより、ずっと華奢な指がそれを受け止めた。  暫く、そのまま宥めた。徐々に背中をさする回数も減り、それも必要なくなった。  「なにかいりますか?」と聞くと、伏せた目のまま首を振った。それから「ありがとう」と答えて、何故か泣いていた。なにがどうしたのかを聞くのは、良くなさそうと思った。  それから一分も経たないで、トイレの外、店内から「なにしてんだ!」と怒鳴る声が聞こえて、彼は慌てて立ち上がって、その声のもとへと向かった。  後を追うつもりはなかったけれど、一応それに続いたら、彼よりずっと大きな男性に腕を掴まれて、店の外に引っ張られて行った。全然、嬉しそうな顔じゃない。  一瞬だけ、お店を完全に出てしまう前にぼくのことを見た。凄く、悲しそうな顔で。  全然、素敵な出会いなんかじゃなかった。でも、その後は凄く、素敵な時間があった。  そんな出会いをした二年後、その人と恋人になった。  最初に感じた印象のまま、その人は凄く綺麗な人だった。出会った頃から二年経って、十七歳になった僕よりずっと華奢な人だった。胸に納めたらまるまる入ってしまうような。  九歳年上でしっかりはしてるけど頼りない。なんだか一人にしておけない、自分が傍にいなきゃと思える人だった。  その人に、大体のことを教えてもらった。大体っていうのはおしり以外。彼は、逆の人だったから。  本当に綺麗で、魅力的で、大好きで、ぼくの宝物みたいな人だった。  だった。そんな人もいた。  あのクラブではなにをしていたんだろう。また、あんまりよくない人と付き合ってしまったのかもしれない。それとも、あの時の恋人がまた、彼を取り戻したのかもしれない。でも、彼は展示されてる風ではなかった。じゃあ、あそこでなにをしていたんだろう。  変わらず綺麗だった。我を忘れてしまったくらい、今も綺麗だった。  だから、この部屋にいきなり現れたら、そりゃあびっくりしてしまう。 「ながれくん」  リョウジ君に捨てられたあの日と同じ。気が付くともう、名前を口にしていた。

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