25 / 25

ぼくのなまえは

※  出来る限りのことをさっぱりしてからあの家に戻るとシズオ君はいなかった。鍵もかかっていて、時間的に出勤もしていない。ということは、そもそもこの家にはいないということだった。  凄く、凄く困った。連絡先も知らない、この時間じゃ流君に聞いたお店も開いてもいない、そういえば、そもそも何時にお店は開くんだろう。それこそ今日はお店、やっているんだろうか。  困った。凄く困った。  明るい時間を波止場や近くのお店で潰して、せめて空が暗くなるのを待った。考えてなかった、まさか、十三日もあの家を空けているとは思わなかった。  単純に計算して、あの家を出たのが十二日前。今日、十三日目。そんなに?  それだけ、落ち込んだのだろうか。いや、そんな感じの人ではなかったと思う。思ったし、見えていたけど、名前すら知らなかったなら、全然まだまだ知らないだけかもしれない。本当はガラスのハートの人だったのかもしれない。参ったな、どうしよう。  考えれば考えるだけ、もうこの家には戻っていないのかもしれないと不安になった。家を出て、この街すら出ていたらどうしよう。  ぼくはあの人のことを知らない。名前すら本人から聞かず人づてに聞いた。あの人のことを、なにも知らない。  じっとしていることに不安になって、まだ少し明るい内から街に出た。それらしい、夜の仕事をしていそうな人に声をかけてみた。コンビニエンスストアの店員さんから始めて、今まさにお店に入っていく人に声をかけて。もう既に出来上がった姿のドラァグの人が一番声をかけやすかった。彼女達が優しいことはクラブに通っていたあの頃からよく知っていたから。  けれど彼女達がシズオ君を知るわけもなかった。本名で、夜の仕事をしているわけもない。 「ねえ、あんた」  何人目かに聞いて、呼び止められた。振り返るとなんだか凄く、綺麗ななんていうかゴージャスな人がいて、その人を見るとぼくが訪ねていたドラァグ達が、その人に挨拶をした。なんだろう、そういう取り締まりみたいな人かもしれない。 「あんたの飼い主はこっちよ」  ドラァグ達から引き離すように腕を引いて、その人が靴を鳴らして歩く。凄く綺麗な音で歩くと思ったらピンヒールの音だった。細い踵で、はっきりとした音を鳴らして歩く。とても慣れているようで、きっとこの人もドラァグをしてたんだろうなと思った。彼女達は、気品のある歩き方をするから。 「あの、シズオ君の?」 「店にいるわ」  顎まである長さの髪が、歩く度に綺麗に揺れる。白に近い金髪、手入れが届いていて、しっとりしてて綺麗。 「イッタラの人?」 「なんの話よ」  細部までこだわって、どこも綺麗。  きっと、この人がシズオ君の面倒を見ていた人だと思った。  肩越しに、ちょっとだけ振り向いてから、その人はぼくの腕を離した。ついてくるかどうかを、確認したみたいな仕草。それから少し置いてから、もう一度振り返ってぼくを見た。今度はついて来てることを、少し、げんなりしたような。 「ねえあんた。聞いてる話しじゃ、全然愛し愛し合ってとか、そんな風には思えなかったんだけど」  ああ、やっぱりそうだ。青いイッタラのお皿の人。こだわりが強くて、綺麗にしてて、こうして面倒見が良くて、シズオ君のことが好き。全部が当たってしまうとは、思わなかったけれど 「多分聞いてるんだと思いますけど」  振り向かずに、まっすぐ歩いて、聞いている。 「シズオくんはぜんぶ与えてくれたから」  その後なにを続けようか考えている内にどれもこの人に言ってしまうのはよくない気がして、困った。多分聞きたくないはず。ぼくよりシズオ君のことを知っていてぼくより近かった人に、ぼくの話のなにが納得いくだろう。  言えない、どうしよう。  困っている間もピンヒールは高らかに鳴って青白い光の看板の下で、その人は立ち止まった。流君に聞いていた、シズオ君のお店。  ピンヒールの人が振り向いた。綺麗に髪が広がって、やっぱり綺麗。薄い茶色の目が、威嚇する高級な猫みたいに見えた。 「ねえあんた。本当にいいのね? シズオは変わらないわよ。もういい年なんだからここまで変わらないことは変わらないわよ。あんたが望んでるものと違った時やっぱりいいやなんて、やめて欲しいのよね。ここから先に入るなら、それは絶対だって言えるから来たのよね?」  ああ、この人はシズオ君を諦めたいのかもしれない。自分の意思では、そう決断しきれない、それがきっと、嫌なんだろう。  こんな綺麗な、気高い高級な猫みたいな人でも、シズオ君は振ってしまったのかな。面倒を見られるのが嫌なのかな。反抗期みたいな、構うなみたいな。いや、全然そんな感じしない。じゃあ、なんだろう。こんな人がいるのに、こんな人でも? 「ちゃんとシズオくんの家に帰るよ、大丈夫」  瞬時に睨みつける為に細められた目が本当に鋭くて、尚更シズオ君への愛を感じた。そんなに好きなのに、ぼくのことを拾ったんだと思うと、このピンヒールの高級な猫さんは、相当今の自分の状況が嫌でたまらないんだろう。  ピンヒールの高級な猫さんが綺麗に扉に向いて、開いた。目にうるさい光が、交互にうるさい。  この先で、ぼくは初めてシズオ君の名前を呼ぶ。初めて自分の口で、自分の名前を言う。  ぼくは鳴川初夏(なるかわはつか)、ただいまかえりました。 (了)

ともだちにシェアしよう!