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第1話 出会い

── 二か月前 ── 不夜城と呼ばれる霞が関でも、月曜日の早朝ともなればさすがに客が少ない。 陳列が終わり、清掃も事務作業も終わってしまうと、レジに立つ千早は祈るような気持ちで夜が明けるのを見つめていた。 店内に客は一人。 若いスーツ姿の男性が栄養ドリンクコーナーに立っているだけだ。 彼はここの常連客だった。おそらく、キャリア官僚だろう。いつも上等なスーツを着ている。 他に客がいないからと言って、あまりジロジロ見つめる訳にもいかないが、千早は一刻も早く、彼に会計をしに来てほしかった。 レジのカウンターの下で、千早の左手には同じシフトの同僚の手が重ね合わせられていた。 生温かいその手は時折それは太ももや尻をまさぐり、少しずつ、少しずつエスカレートしていく。 「……っ」 鳥肌の立つ不快な感触に少しでも身動ぎすれば、横で同僚の相沢がニタリと笑うのが分かると、耐えきれずに千早は体を離してその手を払った。 「くすぐったいのでそのぐらいにしておいてください」 声が震えそうになるのを堪えて、笑顔でやんわりと制止するが、彼は「感じちゃった?」と嬉しそうに笑い、またしても手で尻を触った。 「違いますよ。そろそろ本当に……」 「いいの? 店長に言っちゃうよ。千早ちゃんがΩだって」 その言葉に、千早はぴたりと抵抗をやめた。 相沢にΩだと知られたのは、ほんの一週間前のことだ。 常用している抑制剤をカバンに入れていたことを知られたのだ。なぜ彼が、千早のカバンを漁っていたのかは分からない。 金目の物は取られていなかった。 元々、Ωと疑われていて、証拠を物色していたのだろうか。 いずれにしろ、Ωだと知られた以上、彼に従うしかなかった。 このバイト先を見つけるのに、Ωの自分がどれだけ苦労したことか。 10年前に可決された法案。バース法。 年々深刻化するΩへの性犯罪の抑止と謳われていたが、絶対数が極端に少ないΩの性的被害に寄り添う物ではなく、Ωに〝誘惑された〟αやβが、家庭崩壊や社会的地位を失うことへのその問題の解決としての法案だった。 Ωはいかなる職種であっても就業の際、必ず雇用主に自分のΩ性を告知する義務がある。 Ωは抑制剤の服用義務があり、それを怠って他のバースの発情を誘発した場合は、法によって罪に問われる。 他にも色々あるが、よくもこんな法律を作ってくれたものだと、Ωの身の上としては、恨まずにはいられない。 雇い主にΩ性を告知すれば、トラブルになることを恐れられ、まず採用されない。 だから貧困に苦しむ大抵のΩは法律に背いてβと偽って働くしかない。 千早もそうだ。 最近は規制が厳しくなり、バース証明書を提出しないと雇ってくれないところがほとんどだった。 ここを辞めさせられたら、次がすぐに見つかるとは思えないし、貯金もほとんどなかった。 服の上を熱い指が撫でまわす不快感に、胃から酸っぱいものがせりあがってくる。 何も考えないようにしよう。 触られたぐらいで傷つくほど、綺麗な体でもないと言い聞かせ、嘔気を和らげる。 気づかない振りをして、カウンターの上のホットスナックをぼんやりと眺めているというのも、我ながら滑稽だと思う。 釣銭トレイを見つめて俯きながら、片方の手が震えそうになるのを服の裾を掴んで堪えていると、ふと頭上で声がした。 「警察呼ぶか?」 顔を上げると、先ほど栄養ドリンクコーナーに立っていたスーツ姿の若い男性客が、商品をレジカウンターに置いた。 彼はそれ以上の言葉は言わず、不愉快そうにちらりと千早の隣に立つ同僚を見て、それから再び千早を見つめた。 千早は少しの間呆けたように目を見開いていた。 栗色の髪に、少し色素の薄い瞳。染めているという感じではないから、ハーフだろうか。ひどく端正な顔立ちをしていた。 スーツなど着たこともないから分からないが、とても上等なものだろう。 深夜のコンビニにいるのが似つかわしくない。 まるで高級ブランドのスーツのメンズモデルのようで、思わず見とれてしまった。 「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 「でも、さっきからずっとケツ触られてただろ?」 優雅な身のこなしに似つかわしくない直接的な表現に、千早は微かに頬が上気するのを感じ、慌てて俯くと、同僚が少し狼狽えながらも、ニヤついた顔で言った。 「この子、Ωなんすよ」 千早はギョッとして顔を上げた。それは誰にも言わないという約束だ。 客の中には、Ωが接客をしていることをよく思わない人も大勢いる。店長にクレームを入れられて、Ωだと知られたらと思うと、気が遠のいた。 男性客は、驚いたように目を見開いたが、すぐに首を傾げて言った。 「だからなんなんだ? 合意じゃなかったら、犯罪に代わりないだろ」 「いや、でも……」 相沢は男性の意外な言葉にもごもごと口ごもると、慌てた様子でレジから逃げ、わざとらしく特に用もないのに陳列棚に向かった。 男性客は身をかがめて少し小声で千早に言った。 「マジで合意じゃないなら警察に言った方がいい」 陳列棚の向こうから、相沢がこちらの言動を伺っていることに気づく。 「いいえ、合意でした」 「はぁ? そういうプレイだったっていうのか?」 「はい。そういうプレイでした」 「そういう風には見えなかったけど」 客は明らかに懐疑的な顔をしていた。 これ以上長引かせて、本当に警察に連絡でもされたら困る。 そんなことになったら、逆上した相沢が、千早がΩだと店長に話さない訳がなかった。 「Ωは気持がいいことが好きなんです。お客様にはお見苦しいものを見せて、大変申し訳ありません」 にっこりと営業スマイルを作って言うと、彼は尚も不可解そうに眉間を寄せたが、「それなら邪魔して悪かった」とだけ言った。 (そうだ。余計なことをするな) 胸の中で冷たい声がする。中途半端な善意は、迷惑にしかならない。 それなのに、会計を済ませて帰ろうとする客を、千早は思わず呼び止めてしまった。 「あの」 「?」 「……ありがとうございました」 彼はそれを「ご来店ありがとうございました」という意味として受け取ったのだろう。軽く会釈をして戻っていった。

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