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第2話 おとうと

閑静な住宅街に佇む庭付きの広い一軒家。 母が早逝し、身寄りのなくなった千早は17歳の夏まで、遠戚であるこの文月家で育った。 今はもう、義父母はここには住んでおらず、彼らの一人息子だけが取り残されたように住んでいる。 この家には今も尚、深い傷痕が眠っていて、訪れるたびに千早は鳩尾に冷たいものが落ちるのを感じる。 無意識に震える指先でインターフォンを鳴らした。 中から顔を出したのは、すらりと背の高い、美しい少年だった。 彼、文月葵は、千早より5つ年下の高校生だ。 長いこと一緒に育ったので、今でも千早にとっては小さな弟のような存在だが、今はとっくに背丈も抜かれている。 少し長めの髪はブリーチで染められて金髪で、Gパンにシャツ一枚だけを軽く羽織り、首筋には口紅の痕が残っているのが見え隠れしていた。 まだあどけなさを残した天使のような美しい顔をしているが、たいそうな遊び人だ。 そして、いつも千早に対して残酷に振舞う。 「おっそいね~。10分で来いって言ったのに」 「10分なんて、無理に決まってるだろ」 「言い訳はいいから、さっさと入って」 顔に見合わない乱暴な力で家の中に引きずり込まれる。 部屋にはおそらく女性ものの、甘い香水の匂いが微かに残っており、物があちこちに散乱してぐちゃぐちゃになっていた。 呆気にとられた千早の顔を見て、葵はうんざりとしたように言った。 「他にも女がいるって言ったら、ヒステリー起こしてさ。見てよこれ」 「………」 「片づけといて。俺これから学校だから」 「そんなことのために呼び出したのか? それぐらい自分でやれ。大体、……」 「俺に説教出来る立場なの?」 葵の顔には信じられないほど酷薄な笑みが浮かんでいた。 彼はこの五年間、千早をひどく恨み続けていた。週に何度も呼びつけては、雑用を言いつけ、反論しようとすると五年前のことを思い出させるのだ。 贖罪の義務を、忘れさせないために。 「あーあと、腹減ったから適当になんか作って。シャワー浴びてくる」 千早は溜息をついてパンを焼き、テーブルに置いた。 香ばしいパンの焼けるいい匂いを嗅いでも、まったく食欲が湧かない。 先ほど体中を触られた悪寒で、むしろ吐き気がした。 育ち盛りの彼には、栄養が足りないかもしれないと、さらにハムエッグとサラダを添えてテーブルに並べる。 シャワールームから出てきた葵は、何も言わずに椅子に腰かけて、それらを食べ始めた。 その横で、散らかった服や空き缶を一つ一つ片づけていると、葵がこちらを見つめていることに気づいた。 「なに?」 「食べんの飽きちゃった。残飯あげるからおいで」 まるで野良猫を呼ぶように手招きをされ、千早は眉を顰めた。 「いらない」 「あんたに俺に逆らう権利はないんだよ。ほら、こっち来てって」 仕方なく、ゴミ袋を床に置いて葵の側によると、彼はいきなり千早の顎を掴んだ。 「なにを…っ」 驚いて目を見開くとまるで餌を放り込むように、葵はスプーンで掬ったハムエッグを千早の口に放り込んだ。 「はい噛んでー」 吐き出す訳にもいかず、飲み込むと、今度はパンを詰め込まれそうになったので唇を引き結んで顔を背けた。 だが、葵は尚もぐいぐいと押し込もうとしてくる。 やめろと言おうとして口を開いたところで、再び詰め込まれた。 「……何がしたいんだ」 「だって捨てるのもったいないじゃん? 俺、環境問題に敏感なお年ごろなんだよね」 「じゃあ自分で食べればいいだろう。人に作らせておいて何を…っ」 「飽きたから。昨日遅くまで酒飲んでたし、胃が重いんだよね。お味噌汁とかが良かったな」 「葵はまだ未成年だろう?」 葵はだからなんだと言わんばかりに笑い、再びパンをちぎって千早に差し出した。 無理矢理口に詰め込まれるのは嫌だと、奪い取り、自分で咀嚼した。 食欲などなく、まるで砂を噛んでいるような気分だった。 ■ 葵の部屋の片づけを終えると、昼過ぎに、ようやく千早は家に帰ってくることが出来た。 都心から遠く離れた駅から徒歩15分弱の古いアパートだ。 ドアノブはグラグラとしていて、頼りない。 防犯としても、まるでダメだ。何度か危険な目にも遭っているが、これ以上の住居は望めない。 生きるために最低限度の金と、高額な抑制剤の代金を支払うと、雀の涙も残らない。 風呂とトイレが共同ではないだけありがたかった。 こんなボロでも、家は家だ。外を歩いているときはいつも、外敵に怯える小動物のように毛を逆立てているから、 静まり返った部屋に帰ってきて鍵を閉めると、ようやく緊張の糸が切れて千早は座り込んだ。 音もない部屋で、壁にもたれかかっていると、同僚の手が這いまわる感触が、まるで残像のように体に残っている。 「うっ……ぐっ……」 慌ててトイレに駆け込み、二、三度えずくと、葵に無理矢理食べさせられた朝食を全て吐き出してしまった。 薬の副作用で気持ち悪かったのもあるが、思った以上に、同僚からのハラスメントに体がストレスを感じているようだ。 口をゆすいで服を脱ぎ、そのまま勢いよく冷たいシャワーを浴びた。 体に染みついた汚いものを全て洗い流そうとするけれど、どれだけ必死に洗っても、綺麗になった気がしない。 冷たいタイルの壁に手を突くと、濡れた髪の毛から、涙のように雫がぽたぽたと床に落ちる。 今日もひどい一日だった。 今までと同じ、これからも、きっと同じ毎日の繰り返しだろう。 生まれた時点ですでに道を踏み外していたのだから仕方がない。そう思わなければ生きていけない。 だがそれでも、今日は一つだけ良いことがあった。 ──合意じゃないなら、警察に行った方が良い 他の誰かが自分を気にかけて、助けようとしてくれた。 全く無意味で中途半端な善意だ。むしろ困らせられたのに、それでも千早は嬉しかった。 不条理に取り巻かれた生活の中で、それはまるで砂糖菓子のように甘い出来事で、思い出すと不意に瞼が熱を持った。 その温かさに元気付けられるように、千早はスマホを手にし、求人を探した。 違う職場を探そう。 必死に探せば、バース証明書が必須ではないところもあるはずだ。 そう思いながら、千早は疲労から眠りに落ちてしまいそうになる目を擦り、求人を探し続けた。

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