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第4話 偽装つがい・1

■ 「ねーいつ? いつホテル行ってくれんの? これ以上焦らすとマジで店長に言っちゃうよ?」 「……相沢さんモテそうですし、相手に困ってないですよね?」 「まあね。でもさ、一発オメガとヤッてみたいわけ。そっちもそれ期待してるから、僕とシフト被ってるとき薬も飲まずに発情してるんでしょ? そっちから誘っておいて、いつまでも待たせるのおかしくない? ヤりたくて気が狂いそうなんだけど」 「だからちゃんと薬飲んでますって」 あはは、と笑いながら、千早は地獄のような時間が過ぎ去るのを待っていた。 彼のしつこさは異常だ。だがその異常性は、自分のΩという体質が引き起こしているのだろうか。 だとしたら彼は被害者だということになる。 (本当に薬は飲んでるのに……どうしてこんなに) 今日をやり過ごせればしばらくシフトは被らない。だが相沢も、その意図が分かっているのだろう。苛立ちはピークに達しているようだった。欲にまみれたぎらついた目で体を見られると、それだけで汚されているような気分になり、胸が苦しくなる。 シフトが終わる朝六時まであと五時間。深夜の客は徐々にまばらになってきた。この時間はまだそんなに途絶えることは少ないが、あと2時間ぐらいしたら完全に二人きりになる時間が長引くようになる。 結局まだ、次のバイト先は見つかっていない。 バース証明書について明記されていないところにいくつか応募してみたが、どれも面接時には用意してくるように言われた。ダメ元でΩの証明書を持っていったが、結果どこも不採用。 来月分の抑制剤や検診費用を考えると貯金も心もとなく、やはりしばらくは辞められそうにない。 (明日から食費をもっと節約するか……お風呂も、しばらく我慢してシャワーだけで…) 削れるところはそれぐらいだろうか。店内に誰もいないのをいいことに肩を抱かれ、嘔気がいよいよ限界を迎えたところで、不意に来店を知らせるベルが鳴った。同僚は慌てた様子で体を離したが、勢いよく駆け込んできたその人は、ばっちり見ていたのだろう。 「お楽しみの邪魔をしてすまない」と礼儀正しく謝った。 「……あ」 あの常連客だ。先週も、相沢から無理やりされていたときに助けてくれた。 驚いて目を見開くと、彼は栄養ドリンクを千早に差し出し、カウンター越しに少し身を乗り出して言った。 「今日仕事が終わった後いいか? 大事な話があるんだ」 「え? ええ? 僕に、ですか」 相沢をちらりと見て、これは断る良い口実になると慌てて頷こうとすると、彼は憤慨したように遮った。 「お客さん。悪いんですけど、今日はこの子先約があるんですよ」 「すまないが、こっちを優先させてくれ」 そうして彼は黒い革の財布から無造作に紙幣をつかみ取り、それをそのまま同僚に渡した。 彼はその枚数を数えると目の色を変え、上機嫌にそれを制服のポケットにしまった。 「……あの、話ってなんですか?」 「ああ。終わったら車で迎えにくるから、その中で話そう。店を出たところの大通りの辺りで立っててくれ」 「わかりました」 それだけ取り付けると、彼はよほど忙しいのだろう。会計を済ませた栄養ドリンクを掴んで、急ぎ足で店を出て行ってしまった。 客がいなくなると、相沢はまた当たり前のように千早の肩を抱いて言った。 「話ってなんだろね?」 「さあ……身に覚えがないのですが」 「先週Ωだって話したじゃん? あいつも千早ちゃんとヤりたくなっちゃったのかな?」 「そんなはずはないと思いますけど……」 お前と一緒にするなと内心憤慨しながら、千早は曖昧な笑みを浮かべた。相沢は制服のズボンに突っ込んだ万札を撫で回しながら言った。 「まあ今日は譲るとして、明日はどう? 俺、休みだし、千早ちゃん、昼まででしょ?」 「あー……でも、清掃のバイトもあるので」 本当は、明日はコンビニの早朝バイトが終わればフリーだったが、予定が入っていることにした。だが、相沢はそれがなんだというように続けた。 「清掃って夜でしょ? 終わったらすぐに、アースホテルに来てよ」 『来なかったら本当に店長に話すから』と耳元で囁かれ、千早は瞼を震わせた。 もうこれ以上逃げ続けるのは無理だ。 ようやくこのバイト先を諦める決心がついた。 都心で時給も高く、深夜を中心にシフトに入れば、かなり稼げた。 廃棄品も持ち帰れて食費の節約にもなった。 「行きません。店長には僕から打ち明けますし、それでクビになったら受け入れて辞めます」 「なっ……」 言う通りに従うと思っていたのだろう。相沢の顔が怒りでみるみる赤くなっていく。 「辞めて終わりだと思うな」「住所調べて犯しに行く」と散々脅されたが、千早はカウンターの下で、冷たい汗をかいた手を握りしめて震わせながら、早く時間が過ぎるのをひたすら祈った。 地獄の夜勤から解放されると、千早は客に言われた通り、店のすぐそばの大通り沿いの歩道に立った。同じく夜勤を終えた相沢は、無言で千早の後ろに立っている。 刺すような視線が恐ろしく、振り返ることが出来ない。 (早く……早く来てくれ) ほどなくして、黒塗りの高級車がすぐ横に止まった。窓が開き、中から例の客が顔を出す。あの後寝ずに仕事をしていたのだろう。目の下にはクマが滲んでいるが、その疲れた様子がまた絵になった。 「とりあえず乗ってくれ」 促されるなり、まるで逃げ込むように助手席に乗ると、彼は少しだけ呆れたように言った。 「知らないやつの車に、そんな素直に乗っていいのか」 「……あなたが乗れと言ったんじゃないですか」 理不尽な物言いに思わず眉を顰めると、彼は「それもそうだ」と謝罪した。 「自分で言っておいてなんだけど、よく考えたらかなり危ない状況だって思ったんだ」 千早は「確かに」と不思議そうに頷いた。 いつも夜道をビクビクしながら歩いているし、車が通る車道側は絶対に歩かないようにしていた。 何度か危ない目に遭っているから、そういうことには人一倍気を付けていた。 だが、どういう訳か今は、なんの警戒心も抱かずに乗り込んでしまった。 彼は「別に怪しい者じゃない」とどこか憮然とした顔で言い、片手を伸ばして名刺を取り出すと千早に渡した。 「総務省 綾鳥高斗」 綾鳥総務大臣というのはニュースで何度か耳にしたことがあるような気がした。ということは、その息子だろうか。身のこなしからして、別世界の人間だと思っていたが、本当に別世界の人で驚いてしまった。 「それで、お話というのは?」 「これから登庁で時間がないから手短に言うぞ」 そう言うなり、高斗はクリアファイルに入った一枚の書類を手渡した。一瞬、テレビドラマで見る、結婚届のように見えたが、よく見ると「つがい届」と書かれていた。 「俺と契約して、つがいになって欲しい」 「魔法少女になってよ」と言われた方がまだ驚かなかったかもしれない。千早は思わず「はあ?」と声を上げた。高斗はその反応を見越していただろう。冷静に続けた。 「どうしてもつがいのΩが早急に必要なんだ」 高斗は、混乱している千早に、かいつまんで状況を話してくれた。 官公庁務めでα性を持つ彼は、つがい奨励法を支持している手前、つがいを持たないとキャリア的に良くないらしい。 だが彼自身の主義で、本当のつがいは持ちたくないらしく、書類上だけのいわば〝偽装つがい〟になって欲しいということだ。 Ω性のせいで社会から疎まれ続けている千早は、αにとってΩはそういう需要があるのかと驚き、信じられなかった。そういえば葵も、αはつがいのΩを持っていた方が社会的に優遇されると言っていた。 「でも……偽装つがいって、何をすればいいんですか?」 「何もしなくていい。もし親父が会わせろと言ったら、紹介させてもらうことになるけど、多分言われることはないだろうな。……だからまあ、基本的にやることと言えばその書類にサインしてもらうだけだ」 怪しい。 千早は思わずそう口にしそうになったのを、すんでのところで堪えた。 その思いを見透かしたように高斗は自嘲し、胸ポケットから小さなICレコーダーを取り出した。 「? なんですかこれ」 「今の会話の録音データ。これやるから、この契約で何かそっちにとって不利益になることがあったら、それ週刊春潮に売っていい」 「……売る前に僕、消されそうなんですが」 「一人の人間消すってそんなに簡単じゃねーよ」 「そうなんですか?」 簡単じゃない、ということはやろうと思ったら出来るのではないか。 「あとこれ」 手渡された封筒の中を覗いてみると、いわゆる「札束」というものだった。それが10束ほど入っている。 「足りなかったら言ってくれ」 「受け取れません。なんですかこの大金」 「? つがいの〝振りをしてもらう〟契約金だ。その書類にサインして、一緒に役所に届け出てくれるだけで、この金を渡す」 「ますます怪しいじゃないですか」 「そうはいっても、こっちから持ち掛けた契約だし、対価が必要だろ?」 「まだサインすると言ってませんし……」 渋っていることに対して、高斗は不思議そうに首を傾げた。相沢のように喜んで金を受け取ると思っていたのだろうか。 これだから、世間知らずなお坊ちゃまは…と、溜息を吐くと、高斗はますます不思議そうな顔をした。 「この契約、そっちになんか損があるか? 書類さえ出したら俺たちもうほとんど関わることはないと思うし、面倒ごとはないぞ。あ、他にすでにつがいがいるとか? 一応夜中のうちに調べておいたけど、つがい届は出してないよな。これからつがいになりたい相手が見つかった時は解消して構わないし、離婚と違って戸籍にバツは付かない」 「いや、そんな相手いませんけど……とにかく、不労所得は受け取れません」 「じゃあ、何なら受け取るんだ?」 何もいらないと言ったらウソになる。 本当はこの札束だって、喉から手が出るほど欲しい。だが、自分はただの幸運からこんな大金を手にして良い人間ではない。本当は、人を不幸にした分、傷ついて、苦しまなければいけないはずだ。 だがそれでも、小さな助けを求めてしまう。 「実は……あのコンビニ、クビになりそうで」 「え、なんでだよ!? あんなに熱心に働いてたのにか?」 思いのほかショックを受けられて、千早は驚きに目を丸くした。 同僚に関係を迫られて脅されているなど、知り合いになったばかりの人間相手に打ち明けられず、千早は適当な理由をでっち上げた。 「あー、ほら、あの同僚の人と仕事中にプレイしてたのが、店長にバレてしまって」 「…………」 もう少し、マシな言い訳を思いつきたかった。高斗は心底呆れたという顔をして、それについては何も触れなかった。 「そういう訳で、もし他にΩでも就業可能な職場があったら紹介して欲しいんですけど。官公庁って、清掃バイトとか募集してませんか?」 「………分かった。探しておく」 高斗は深いオリーブ色の手帳を開き、メモをした。 もし次の職場を紹介してもらえるなら、本当にありがたい。この書類にサインするぐらい、なんていうことない気がした。 リスクはあるが、高斗はどうしてもそんなに悪い人間には思えない。だが、書類上とはいえ、サインをしたら彼とつがいになるのだ。 自分がつがいを持つ日がくるなんて、夢にも思っていなかった。 (もしそうなったら、葵には…黙ってないと) 例え真似事でも、葵は千早がつがいを持つことを許さないだろう。ひどく激昂するに違いない。 「でも、こんな人間を、偽装でもつがいにしていいんですか? いくらなんでも不釣り合いだと思いますが…。そもそも、なんで僕なんですか?」 「知り合いのΩが君しかいなかった」 知り合いというほどの間柄ではないが、確かに日常生活でΩに出会うことは珍しいだろう。千早も、葵以外のαには初めて出会った。 「マッチングアプリとか、今いっぱいあるじゃないですか」 「アプリだとかああいうのは分からないから嫌いだ」 拗ねた子供のような顔をして、高斗が言った。 「分からないって……」 見た目的に、年はそんなに変わらないはずだ。 そういえば、コンビニで接客したときも何度か、特定のアプリで支払いするとポイントが付くと言ったときも、毎回断われたなとふと思い出した。 「あとはまあ、君が男だっていうことだな」 「え…」 Ωの中でも男が性の対象ということだろうか。セックスを求められたらどうしようと、千早は思わず身を竦ませながら言った。 「……悪いですけど僕、いろんな人と寝て病気持ってるから、あなたみたいなマトモな人は、やめておいた方がいいですよ」 高斗は一瞬、ギョッとしたが、その後うんざりした顔で言った。 「逆だよ逆。俺はドが付くほどストレートなんだ。男の君が相手なら、万が一にも〝間違い〟がないからってこと。本当に、紙面上だけの関係にしたいからな」 「あ、ああ……なんだ、そういうことか。それは残念です」 思わず胸を撫でおろしながら、眉を下げ、残念そうな振りをすると高斗は呆れた顔をした。 「で、病気って?」 「あー…まあ、エイズとか命に係わるような病気ではないですよ」 「ならいいが……俺もそんなに身綺麗な生活してないけど、遊びはほどほどにしとけよ」 「はい」 「まあ、今日中に決めろとは言わない。ただ、出来れば早めに返事が欲しい。特に、NOの場合は。プライベートの番号は、名刺の裏に書いてあるから、いつでも連絡くれ。君の働き口は必ず探して、見つかり次第連絡する。契約をするしないに関わらず」 「え……いいんですか?」 それはさすがに申し訳ない。彼はひどく忙しそうだから、千早の職探しに割く時間などないだろう。 「ああ。だからいい返事を期待してるぞ」 にやりと笑われて、これは善意という名のプレッシャーだと思った。それでも、そんなに嫌な気持ちにならないのはなぜだろう。 「なあ、自宅って、この道で合ってるよな?」 「え?」 突拍子もない契約話に夢中になっていたが、高斗が走らせる車がいつの間にか千早の自宅方面に向かっていることに驚いた。どこに向かっているのだろうとぼんやり思っていたが、わざわざ家に送っていてくれたのだ。 「……知らない奴の車に乗り込んで、行先もろくに確かめないでぼんやりしてて大丈夫かよ。心配だな」 「いや、だからあなたが…っ、って、それよりも住所、どうしてわかるんですか?」 「昨日の夜中のうちに色々調べておいた。書類上でもつがいになるんなら、相手の素性ぐらいザッと把握しておかないとまずいだろ。逮捕歴とか薬物歴がないかとか」 「……そ、そんなの職権乱用じゃないですか」 「俺の職権だけじゃそこまで分からないけど、色々ツテはあるんだ」 「………」 やっぱりこの男はやろうと思ったら人ひとりぐらい消そうと思えば消せそうだと、千早は思った。 〝持てる者〟は恐ろしい。 それにしても、一体どこまで知っているのだろう。 (まさか……あの事件のことまで) 青ざめていると、「細かいプライベートなところまではさすがに分からないから安心しろ」と言われた。 「俺の略歴も後で渡す。それを見て契約するか否か判断してくれて構わない。……おい、この道曲がらなくていいのか?」 「あの、もうこの辺で下ろして下さっていいですよ。地下鉄で帰ります。大体、登庁時間間に合わないんじゃないですか?」 「いや、ぎりぎり間に合うし、こっちから持ち掛けた話で時間取らせたんだから家まで送るぐらいはする。夜勤明けで疲れてるんだろ?」 そっちこそ徹夜明けだろう。それに、あのボロアパートを見られるのも、少し恥ずかしい。 降ろしていいと何度も言ったが、高斗は聞かなかった。 「あと15分ぐらいだけど、寝てていいぞ」 そう言って、静かな音楽まで流されると、夜勤の間ずっと相沢と対峙していた時の極度の緊張から解放された安心感で、ドッと疲労が押し寄せた。 誰かから、こんなに優しくしてもらったのは初めてかもしれない。 瞼が重くなっていくと、ダメ押しのように「おやすみ」と言われ、千早はついに目を閉じてしまった。

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