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第4話 偽装つがい・2

夢を見ていた。 10歳のときに母が亡くなったときのことだ。 葬式の席では親戚中が千早のことを押し付け合っていた。近い親戚の家は皆、年頃の子供がいて、Ωの千早を受け入れることは無理だと言いあっていた。 それまでほとんど交流もなかった文月家が、どうして千早を受け入れることになったのかは分からない。葵が言うには「押し付けられた」らしいが、それは本当にそうだったのだと思う。 千早の養母となった葵の母は、千早を初めて家に迎え入れるときに強い口調で言った。 『ごめんなさいね。あなたを家族と同じようには扱えないのよ。葵はまだ小さいから大丈夫だと思うけど、夫には近づかないでちょうだいね』 養母は徹底していて、食事も、千早だけ別に部屋で取るように言い、極力リビングなどに来ないで欲しいと言った。今思えばそうするしかなかった彼女の気持ちがわかる。だが、幼かったあの頃は、どうしてそんなに自分が疎まれ、仲間外れにされるのか分からなかった。 リビングから談笑が聞こえてくる中で一人食べる食事は寂しくて悲しくて、よく部屋で一人泣いていた。グスグスと自分の部屋で泣いていると、時折ドアが開けられて、小さな足音が駆け寄ってきた。 『ちーちゃん、またないてるー』 屈託のない笑みで、葵はよくそう言ってきた。 あの時の葵は、まだ5歳ぐらいで、まるで女の子のように可愛らしく、頻繁に千早の部屋を訪れた。 『ねえなんでないてるの? なかまはずれがさびしいの?』 『……うん』 『ちーちゃんってなんでいつもひとりなの? この家の子になったんでしょ?』 『………そんなの、僕が知りたい』 『へんなの。じぶんのことなのに』 不思議そうにそう言いながら、葵は涙を拭う千早の手を無理やり離させて、泣き顔をじっと見つめた。 『な、何だ……?』 いくら五歳児が相手とはいえ、泣き顔を見られるのは恥ずかしくて顔を背けるが、彼はそれでもなお、千早の顔を覗き込んだ。 『ちーちゃんのなきがお、キレイだからもっと見せて。おれ、すきなんだ。いちばんすきなかお』 それは幼い頃の葵の口癖だった。 幼心ながらに、泣き顔が綺麗で好きだなんて、変なことを言うと、聞くたびに思わず笑ってしまったのを今でも覚えている。 屈託のない、天使のような笑顔で「ちーちゃん」と呼び、懐いてくれる葵のことがとても可愛かった。 養母も、まだ幼い葵が千早に懐いていることは黙認していたし、むしろ手のかかる小さな子供の相手を任せていたように思えた。 その後、小学校に上がるタイミングで受けたバース検査で葵がαと判明した。 養父母は二人ともβだったが、ごくごく稀にαが生まれるケースもあるという。 養母は思いもよらない結果をひどく喜び、葵を中学から名門進学校に入れたいと考えるようになった。 平凡な家庭からエリートを出すという養母のその願望は次第にエスカレートした。 まだ幼い葵に家庭教師をつけて勉強をさせ、思うように学力が上がらないとヒステリックに怒鳴ったり手を挙げるようになった。 葵は両親の前では決して泣かずに、千早の部屋でだけ泣いていた。千早は何も出来なかったが、ただ抱きしめて好きなだけ泣かせてやった。 それから二年ほどして、養母は教育費用の足しにするために仕事を始めて留守がちになった。 千早は養母がいない隙を狙って葵におやつにホットケーキを焼いて食べさせたり、一緒に公園で遊んだり、まるで兄になったつもりで面倒を見た。 葵の学力は非常に高く、千早は勉強だけは見てやれなかったが、厳しい勉強の合間に子供らしく息抜きできればと思っていた。 夕食も、忙しい養母に変わって四人分作り、養父が早く帰ってきた日は部屋で一人で食べていたが、二人とも遅い日は葵と二人で食べた。 『ちーちゃんのごはんおいしい』 『そんなに? 大げさだな』 『大げさじゃないよ。一生食べたいから、けっこんしよ』 『何言ってんだよ。クラスに好きな子とかいないのか?』 『いるけど、ちーちゃんの方が可愛い』 『ませてるなあ』 葵だけは、自分を家族として認めてくれると思っていたし、千早にとって葵は宝物のように可愛い小さな弟で、たった一人の大切な家族だった。 だが、中学受験が徐々に近くなり、思春期にさしかかった頃、その態度は一変した。 Ωが家族にいるということで、学校で揶揄われたのかもしれない。 千早がΩだということを、しきりに気にし、しまいには家から出るように要求してくるようになった。 『ちーちゃん。悪いんだけどさ、発情期が始まる前に、この家から出てってくれない?』 『発情期って……ヒートだろ。そんなの、まだ先だし、ちゃんと薬も飲んでるよ』 千早は体の発育が遅かったせいかヒートが始まるのも他のΩよりも遅く、中学校に通っているうちはまだ初めてのヒートを迎えていなかったが、万が一に備えて、常に弱めの抑制剤を飲んでいた。 だが葵はそれでも納得せず、顔を合わせれば出ていけと衝突が絶えなくなった。 たった一人の家族だと思っていた葵に疎まれるのは想像以上に堪えて、何度も夜中、密かに涙を流した。ずっと独りぼっちだったけれど、本当の独りぼっちになってしまった気がしたのだ。 とはいえ、中学生ではまだ家を出ろと言われても行く宛もなく、どんどん冷たくなっていく葵の視線から逃れるように部屋に閉じこもり、息を殺して生活するしかなかった。 葵と顔を合わせることが、冷たい目で睨まれることが苦痛になり、千早は中学を卒業するとバイトをいくつか掛け持ちして一人暮らしの資金を稼ぐことにした。 その頃になるとヒートが本格的に始まり、薬の副作用による体調不良や、人間関係のトラブルが絶えなくなった。 バイト先を見つけるだけで一苦労で、見つけてもすぐにクビにされてしまい、思うように金が溜まらなかった。 そんなある日のことだった。 千早は出来るだけ文月家の人々と誰とも顔を合わせないようにと、入浴も彼らが一通り夜自宅を済ませた後の真夜中に、時間をずらして入っていたが、ある日脱衣所で偶然、勉強の眠気覚ましに冷たい水で顔を洗いに来た葵と鉢合わせしてしまった。 『!』 『あ、ごめん』 慌ててタオルで体を拭い、パジャマを羽織ったが、葵はまるで固まってしまったようにその場に立ち尽くし、千早の体を見つめていた。 『悪かった。もう洗面所使って大丈……、っ!?』 不意に葵に胸倉を捕まれ、乱暴に壁に押し付けられた。いつの間にか、あんなに小さかった葵の背丈がほとんど自分と変わらなくなっていたことにその時初めて気づいた。 何事かと混乱していると、彼は千早の胸ぐらを掴んだまま、揺さぶりながら、すごい剣幕で言った。 『いつになったら出てくんだよ!』 『あ、あと少しで貯金が貯まるから…』 『そんなの待ってないで、母さんに借金すればいいだろ。早く出てけよ! いい加減、迷惑なんだよ!』 思い切り揺さぶられ、一体なぜ急に逆鱗に触れてしまったのか分からず、千早は震えながら答えた。 『そ…、そういう訳にいかないだろ』 ただでさえ疎まれている養母に金の無心をするのはどうしても抵抗があった。 初めから嫌われているのは分かっていても、それでも、これ以上嫌われるのは苦しい。 家を出たらもう、文月家を頼ることはできなくなるだろうし、抑制剤の購入にも金がかかる。 ある程度まとまった資金がなければ、家を出るのは不安だった。 だが、今思えば葵の言う通りだった。 借金をしてでも、一刻も早くあの家を出るべきだった。 年下の葵のほうがあの頃からずっと大人で、現実を分かっていたのだ。 Ωというものがどういう物なのか、なぜこんなにも疎まれるのか。 本当の意味で分かっていなかった。 子供の頃は全く千早に関わってこなかった養父が、養母がいない時だけ話しかけてくるようになったのは、本格的なヒートが始まる少し前からだっただろうか。 そのとときはただ、嬉しかった。 たった一人、自分を家族だと思っていた葵から急に冷たくされて、大きなショックを受けていたし、養父の話しかけてくる内容も、他愛のないもので、そこに他意があるなんて疑いもしなかった。 そうして、あの晩──……… (いやだ、これ以上見たくない) 悪い夢なら早く覚めて、と暗いベッドの中、軋む音や荒い息遣いから逃げるように首を振り、金縛りにあったように動かない手足を必死に動かそうとした。 その時、不意に誰かから肩をゆすられて、急に体が自由になった。 「……?」 眩しさに思わず顔を顰めた。 ここは一体、どこなのか。文月の家ではないし、今暮らしている自分の部屋でもない。寝ぼけたまま瞬きしていると、高斗が呆れたような、心配したような顔で言った。 「大丈夫か? なんかすごいうなされてたぞ」 Tシャツの下が異様に冷たく、びっしょりと冷や汗をかいていたことが分かった。膝に置いた手が、小刻みに震えている。 そうだ。 高斗に車で家まで送ってもらっていたんだ。 車はもう、家に到着していたようで、フロントガラス越しに、住み慣れたボロアパートが見えた。 「すみません。変な夢を見ていて……」 慌ててシートベルトを外すと、高斗もまたシートベルトを外して車から降り、助手席のドアを開けてくれた。 「浅い眠りの時は悪夢を見るらしいからな」 「そうなんですか?」 「ああ。昼寝すると悪い夢を見るのはそういう理屈らしい。……大分寝ぼけてるみたいだから、足元気を付けろよ」 そう言ってエスコートするように手を差し出されて戸惑ったが、その手を取り、車から降りる。 「つーか、カーナビ通りに運転したらここに着いたんだが、本当にここで住所あってるのか……?」 高斗が、信じがたいというような顔で目の前のボロアパートを指差した。 「はい。ここで合ってます」 彼はますます信じられないというようにアパートを見上げ、ひび割れたコンクリート壁に、蔦が生い茂っているのを見ながら恐る恐る言った。 「廃屋……じゃないんだよな? 本当に人住めるのか? 最近空き家に勝手に住むヤツが増えてるけど……」 「失礼な。一応管理人さんもいますよ」 千早はムッとしながら、鍵を取り出して、自分の家のドアの前を指差した。 「ここにはもう6年ぐらい暮らしてます。住めば都ですよ」 ここに6年…と、高斗はどこか引いたような声を出し、そしてハッとしたように言った。 「え? 一階に住んでるのか?」 「? そうですけど」 「危なくないか。……その、お前Ωだろ?」 「そうですけど。見かけは普通の男ですし。女の子の独り暮らしじゃないんですから」 本当は何回か、危ない目には遭っていた。夏場どんなに暑くても、夜は怖くて窓を開けられない。 夜道をつけられてそのまま押し入られそうになったり、鍵も、玄関も窓も簡単に壊せるような脆い造りになっているし、ピッキングでも簡単に開けられてしまう。 窓から逃げてそのまま交番に駆け込んだことも何度もあった。 だがそれでも、ここ以上に安全な場所を、千早は知らない。 「……毎日掃除してるから、中はそんなに汚くないですよ。良かったらお茶でも、飲んでいかれます?」 そんな時間はないだろうけれど、なんとなくここまで送ってもらって何もしないのは気が引けた。それになぜだろう。 知り合ったばかりの相手だというのに、高斗とは妙に離れがたい。 (この間、賞味期限近いからって持って帰らせてもらったお菓子がいくつかあったはず……本当は何か作れればいいんだけど、そんな時間はないよな) コンビニ菓子など彼が口にするようなものではないかもしれないが、焼き菓子系ならお茶請けに出来るのではと思っていると、高斗は時計を見て首を横に振った。 「いや、悪いけどさすがにそろそろ仕事に向かわないと…」 「そうですよね。すみません。本当に、こんなところまで送って頂いて」 「いや……おかげで、紹介したい仕事が思いついた」 「えっ?」 「今日はもう時間がないし、おそらく今晩も庁舎に泊まり込みだから、明日また来る」 「あ、ありがとうございます! どんな仕事でもやりますよ。多少危険な仕事でも、Ωでも可な仕事ならなんでも」 「なんで契約を持ち掛けた相手にわざわざ危険な仕事を紹介するんだよ。別に危険はない。まあ嫌だったり、少しでも信用できないと思ったら断ってくれればいいから。……ああそれから、〝こっちの件〟もよろしくな」 つがい届が入れられたファイルをパシッと手渡され、千早は頷いた。 「じゃあ、また明日」 「はい、また明日」 高斗の車が都心に向けて走り出したのを見送ると、急に寂しさを覚えた。 鍵を回していると、後ろで「ツツピツツピ」という鳥の鳴き声がして、ふと振り返る。ブロック塀の上に、二羽のシジュウカラが並んで止まり、互いの羽を羽づくろいしているのが目に入った。 「仲いいなお前達。夫婦か?」 そう声をかけるが、こちらの話声など見向きもせず、互いに夢中になっている。蚊帳の外だが、なんとなく幸せな気分になり、千早は微かに笑って高斗から手渡された書類に目を落とした。 (つがい届……か。つがいになるって…どんな気分なんだろう) 正確には、書類上だけのフェイクの関係だが、それでもこの書類にサインしたら、法的には彼のΩになるのだと思うと妙に気恥ずかしく、頬が火照る。 「……え」 頬だけではなく、体も熱くなっていることに気づくと、千早は混乱し、慌てて鍵を回して部屋に飛び込んだ。 (ヒートでもないのに……なんか変だ) ──また明日 高斗の顔を思い出すとさらに体が熱くなり、千早は慌ててその不可解な熱を収めるようにシャワーを浴びた。

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