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第6話 連れ去る

■ 5回目のコール音が途切れ、聞こえてきたのは千早の声ではなく、無機質な機械音声だった。 「メッセージのある方はピーッという発信音の後に……」 おそらくスマホから目を離しているのだろう。高斗自身アナログ人間で肌身離さずスマホを持ち歩くタイプではない。 特にプライベートのスマホはほぼ見ることがなく、しょっちゅうメッセージや着信を見逃しては怒られていた。 六時半までには着くということと、折り返しは不要だと伝言を吹き込むと、電話を切る。 (一言、声を聞きたかった…) 千早のあの落ちついた優しい声で「お疲れさまです」、と言われたらこの連日徹夜による泥のような疲労感が癒され、もう少しやる気が出る気がしたが、出なかったのだから仕方ない。 (って、何考えてるんだ。あいつ男だぞ) あまりにも疲れてる。 がっくりと肩を落として沼地のように疲労感で淀んだ空気の漂う仕事場に戻った。時計を見ると17時20分。 「…さっさと終わらせるぞ」 電話は繋がらなかったがどうせこの後家を訪れるのだから良い。 今日は太陽が上る前から仕事を始めたおかげでとても進捗が早い。 議員レクを17時過ぎに半ば強引に終わらせると、急ぎで片付けなければならない仕事は溜まっているメールの返答だけになった。 明日の答弁資料の作成があるから、どっちにしろ今夜も泊まり込みだが、1、2時間なら抜けられそうだ。 買いだめしていた栄養ドリンクを飲みながら、モニターに向かって猛スピードで打鍵してメールを返していると、隣の青山が話しかけてきた。 「どうしたの今日。すごいやる気じゃん」 「うっせーな。忙しいんだから話かけんなよ」 「いや、もうね…話してないと寝ちゃいそうで」 「壁に向かって話してろ」 青山のひどぉいという声にますますイラッとしたが、高斗は手を止めなかった。 青山は青山で答弁資料の作成が終わらないようで、寝不足の虚ろな顔で手を動かしたまましゃべり続けた。 「そうそう。この間高斗、Ω探してるって言ったじゃん? 俺の海よりも広い人脈総動員して声かけて色々聞いてみたらさ、一人だけ素人Ωの子いたんだよね。Ωでもさ親が金持ちだとまあ、ちゃんと守られて健全に生きていけてる訳よ」 世の中ってほんと金次第だねーと青山は続けた。 「で、さっそく連絡取ってみたんだけど、高斗の写真見せて大臣の息子って言ったら会いたいってすごい乗り気。どうする? セッティングする?」 「いらない。もう相手は自分で見つけたから余計なことすんな」 「えっ、マジ? もう書類出したの?」 「いや、まだ返事待ち」 「高斗の申し出に返事待ちってすごいね」 「そうか? 普通見ず知らずの人間からいきなりつがい届を出してくれって頼まれたら怪しむだろ」 「なんの縁もゆかりもない人に頼んだの?」 「縁もゆかりもないってほどじゃ……よく行くコンビニの店員」 「それって……………」 青山はしばらく絶句した後「ナンパじゃん!」と叫んだ。同じく一週間ぐらいまともに眠っていない他の職員たちは何事かとこちらを見たので、 高斗は机の下で青山の机を蹴飛ばした。 「違う! 誰でも良いけど、面識あるやつの方がいいと思っただけだ」 「でも、返事待ちなら俺が紹介する子の方が話が早くない? 一週間で決めなきゃいけないんでしょ」 その通りだ。 誰でもいいと言いながら、確かに自分の言動は矛盾している。 「……まだ一週間あるんだからいいだろ。どうしても駄目だったらそのときは頼む」 「そこまで粘るってそんなに可愛いの」 「かわいいもなにも男だ」 すると青山はキーボードを叩く手を止め、わざとらしいほどギョッとしてこちらを見た。 「えっ……高斗そっちいけたっけ」 「いけねーよ。いけないからちょうどいいんだよ。書類上だけの関係だからな。もういいだろ。仕事しろ」 青山は「なるほどねえ」と目を細め、しばらくはおとなしく仕事をしていたが、5分ほど経つと、眠気に我慢できなくなったのか口を開いた。 「Ωだと男でも可愛いもんなの?」 「………まぁ、顔は」 コンビニで客として通っていたときは、あまりまじまじと見たことがなかったが、この間車の助手席に乗せて初めて間近に接したときは、不覚にも可愛いと思ってしまった。 だからといって100%ストレートである自分がそれに対してどうこう思うことはないが、悪夢にうなされる姿は、苦しげなのに艶っぽくて起こすのを思わず躊躇ったほどだ。 自分は大丈夫だと言える自信があるが、客観的に見て彼はどこか危うい気分にさせるような雰囲気があると思った。 だからこそ、あんなコンシェルジュもいない、オートロックもないようなボロアパートの1回に住んでいると聞いた時驚いた。 男だから大丈夫と笑っていたが、自分や青山のような「男」とは違う。彼のような青年があんな所に住んでいて、今まで何もなかったとは思えない。 (紹介する仕事……引き受けてくれるといいが) 最後のメールを返し終えると、高斗はパソコンをスリープにして立ち上がり、ジャケットに手を通した。 「青山悪い。俺今から2時間ぐらい抜けるから、その間、爺さん達の世話頼む」 若手官僚はただでさえ忙しいのにも関わらず、年上の重鎮から何かと用事を言いつけられるものだ。 日本企業の全ての上下社会、縦社会文化が崩壊しても、この霞が関にだけは残り続けるだろう。 青山と二人いれば、用事は二分の一になるが、どっちかが席を外すと、結構頻繁になるため、非常に面倒くさい。 「えーーーーーーーーーーーーーーーーーー」 「こないだお前が抜けたとき代わってやっただろうが」 「まーそうだけどー」 青山は心底嫌そうに言った。悪いとは思うが、今から行けば千早に連絡した時間に間に合う。 「高斗が中抜けするの珍しいね。例のΩの子にでも会いに行くの?」 「…………」 「え、あっ、図星?」 うるさいなと一喝して席を離れようとしたが、そのとき電話が鳴った。プライベートのスマホではなく、高斗の自席の電話だ。 電話番号を見ればなんとなく相手がわかり、面倒ごとが舞い込む予感に思わず舌打ちしそうになったが、仕方がないと受話器に手を伸ばしかけると青山がそれを制した。 「よし、これも俺が代わりに処理しといてやろう」 彼はそう言って、転送ボタンを押した。 「どういう風の吹き回しだ?」 「その代わり、今度一度そのΩの子に会わせてね」 好奇心が押さえられないという青山の様子にそういうことかと溜息をついたが、正直助かった。 「………わかった。恩に着る」 早く行ってあげなーと手を振って、青山が電話を取った。 内心青山に手を合わせ、高斗は鞄を掴んで千早の家に向かうため、地下駐車場へ向かった。 ■ 時刻は午後6時半少し前、車を降りると廃墟としか思えない例のアパートがあった。 「夜見るとますます亡霊アパート感あるな」 駅から遠いせいか周りには街灯やコンビニなどの店も少なく、どことなく暗い。 「ん?」 一階は四部屋あるようだが、明かりがついているのは1番手前の角部屋だけだった。 まだこの時間では留守の部屋もあるだろうが、千早の部屋は角部屋ではなかった。 「確か……102だったよな」 角部屋の隣も、電気が消えて静まりかえっている。外出の予定もなく、来客の用事もないと言っていたはずなのに。 「寝てる……とかか?」 彼もまた、高斗に負けず劣らずハードで不規則な生活をしている。 少しの時間を見つけて仮眠をとりたいという気持ちはわかる。 それならば起こすのも偲びないが、一応アポイントも取っているのだからと躊躇った末にチャイムを鳴らした。 ピンポーンという音が静かな廊下に響くが、いつまで待っても出てこない。 何度か押してみたり、スマホに電話をかけてみたりしたが、同じことだ。 (まさか、すっぽかされたのか……) 確かにいきなり官僚を名乗る男から車に乗せられ、つがいの契約書を書いてくれと言われたら怪しい。 警戒すべきことだ。 むしろ彼がこちらをあまり疑っていなかった様子だったことに心配もしていた。 そんな男から紹介される仕事など怪しいし、すっぽかすというのはごく一般的な危機管理能力を持つ人間なら妥当な行動だろう。 もし自分が同じ立場だったら無視するし、連絡先など絶対に教えない。 だが、それなら普通に電話で断ってくれればよかったのに。 (何やってんだか…) らしくないことをした。 彼にただの善意で仕事を紹介したところで、なんの利益にもならないのに、朝からやけに突き動かされていた。 (2時間あったら2時間寝られたんだぞ…) 早朝から仕事を巻きで終わらせたり、徒労感に思わず溜息をついた。 やはり損得勘定以外で無駄な行動はしないに限る。 「なんだよ……」 がっくりと肩を落として帰ろうとしたとき、中でガシャンッという物音がした。 明らかに、何か物が落ちたような音だった。 (なんだ……?) 角部屋から聞こえたのか、千早の部屋から聞こえたのかも分からない。 もし千早の部屋からなら、変だ。 だが、居留守しているのかもしれないし、押し入る訳にもいかない。 そっとドアノブに手を添えて、音を立てないように回していたが、鍵がかかっていて開かず、中の様子はうかがえそうにない。 ふと、足元に真新しいタバコの吸い殻が一つ落ちていることに気づいた。 おそらく千早は吸わないだろう。 彼を助手席に乗せた時も、間近で揺すり起こした時も、石けんだか柔軟剤だか、とにかく良い匂いしかしなかった。 たまたま誰かがここに、千早の部屋の前に落としていったのだろうか。 そのとき、隣の角部屋から男が出てきた。明らかに柄の悪そうな男で、場違いだと言わんばかりに、高斗のスーツ姿を不審そうに見た。 「その部屋の人の友達?」 「あ……いや……留守みたいで」 「さっきから物音がうるせーんだよ。なんか痴話げんかしてるみたいで寝られやしねえ」 「痴話げんか?」 「前も男とトラブル起こしてて、時々警察沙汰になってんだよな。もしかして、あんたも“客”か? やめとけよ。病気うつされるぞ。Ωだって話だし」 高斗は不快な質問は無視して言った。 「………電気が消えてるんで留守見たいですが」 「じゃあどっかに出かけたのかな。一旦静かになったと思ったら、またなんか変な音したから、今度こそ怒鳴り込んでやろうと思ったんだけど」 不満そうに言って、男は部屋に顔を引っ込めた。 (痴話げんか?) ──……悪いですけど僕、いろんな人と寝て病気持ってるから、あなたみたいなマトモな人は、やめておいた方がいいですよ 確かにあんなことを言っていた。 もし火遊びの末のトラブルなら、自業自得だ。普段ならそう切り捨てるだろう。 自分はそんなに他人に対して優しい人間ではない。 まして彼は、顔見知り程度の関係の域を出ず、そこまで親身に心配する立場にもない。 だが、痴話げんかにしてはあまりにも静かなのが不気味だ。 強い違和感。 それだけの理由で鍵を壊して中を改めるのはためらわれたが、かといってこのまま立ち去る気にはなれなかった。 なんとしても、千早の姿を確認してからではなければ帰れない。 高斗は意を決して、鞄から仕事の書類を取り出すと、それを束ねていたゼムクリップを外した。 端を引き延ばして針金のようにすると、鍵穴に差し込んでみた。 鍵開けなどやったことないが、随分古い鍵のようで、ピッキング対策はされてなさそうだ。 「でもいくらなんでもこんな簡単なことで………空いた。嘘だろ」 あまりに脆弱なセキュリティに呆然としながらドアノブを回すと、確かに鍵は開いていた。恐る恐る中をのぞき込むと、中は完全に真っ暗だった。 だが、茂みに潜むケモノのような、不気味な気配を感じる。 壁を探っていると、電気のスイッチらしきものに触れ、高斗は夢中でそれを押した。 物盗りが入ったような荒れた部屋。焼き菓子やらサンドイッチやらが散乱した床。 その横で「何か」に覆い被さる男は、突然明るくなった部屋に、ひどく焦った様子でこちらを勢いよく振り返った。 その顔には見覚えがある。 あのコンビニで、よく千早と一緒にバイトをしていた店員だ。怠惰な雰囲気で、あまり好印象はなく、深夜のコンビニの気だるい雰囲気にはぴったりの男。 よくセクハラまがいのことをしていたが、千早は同意の上のプレイだと言っていた。 男はスポーツでもやっているのか体格がよく、おそらく彼の下に組み敷かれているだろう千早の姿がよく見えない。 向こうもまた、高斗の顔に見覚えがあったのだろう。千早の姿を隠したまま言った。 「あ、ああ…、何、お前…千早ちゃんの新しい彼氏になったのか。合い鍵貰ってたの? 悪いけど俺らお楽しみ中だから帰ってくれる?」 「悪いが、俺はちゃんと事前にアポイントを取っている。お前が帰ってくれ」 そう言いながら歩み寄ると、男はますます焦ったように千早を隠した。 「お、俺の方が先にホテル行こうって約束してたのをすっぽかしたんだよ。こいつ、そういう奴なんだ。今からお仕置きしてやるところだ。お前も、弄ばれる前に手を引いた方がいい」 「お前の言い分はどうでもいい」 高斗はそう言って男の方にズカズカと歩み寄った。 千早の声が一切しないのが気になり、祈るような気持ちだった。ひどく嫌な予感がする。 隠そうとする男を押しのけると、その下に組み敷かれ、影になっていた千早の姿が目に入った。その姿に、高斗は目を見開いた。 衣類を切り裂かれ、ほとんど丸裸に近いような千早は両手を結束バンドで縛られていた。 その首の真横にはナイフが突き立てられており、少しでも身じろぎをしたらその肌を傷つける。 口はガムテープが貼られ、頬は殴られたのか赤く腫れ、怯え切った虚ろな目からは涙が零れていた。 普段、どんな悲惨で理不尽な状況を見ても義憤に駆られるタイプでもないのに、その姿を目にしたとき、自分でも不思議なほどの強い怒りがこみ上げてきた。 彼らの間にどんな事情があるのか知らない。 例え、本当に千早がこの男を弄んでいて、その火遊びの代償だったとしても、あらゆる事情を差し引いても、あまりに許しがたい。 高斗は無言のまま、逃げようと後ずさる男の後頭部を掴んで引きはがすと、そのまま思い切り壁に向かって叩きつけた。 「ぐ、あっ…」 こめかみを強く打ったらしい男は呻いて蹲った。それをさらにもう一度掴み、叩きつける。 「ぐ…っ、や、やめ…っ」 さらにもう一度叩きつける寸前のところで止め、耳元で言った。 「今から警察呼ぶ。大人しくしてろよ」 「な、何で警察なんか…っ、ただのプレイだ。あいつが約束を破ったから…っ」 「そうか。じゃあこれも楽しい楽しいプレイだなァ!」 もう一度頭を壁に叩きつけようとすると、男は情けない悲鳴を上げた。 「わ、分かった…っ、わかった、大人しくするから…っ」 鼻血を流した汚い顔をこちらに向け懇願してくる。 さすがに少しやりすぎた。これじゃどっちが加害者か分からない。 さすがにもう反抗の意思はないだろう。頭を強く打ち付けて、ぐったりした様子だ。高斗は男の後頭部を掴んだまま片手でスマホを取り出した。 110番をしようとしたが、その一瞬、目を離した隙に、男は最後の力を振り絞るように高斗の顔を殴った。 口の中に、不快な鉄の味が広がる。 男はよろけながら立ち上がって逃げ出した。 「っつ…っ、クソッ、待て!」 すぐに追いかけてもう一度殴って捕まえようとした。相手は手負いで、足元がおぼついていない。 だが、千早を置いて追いかける訳にはいかなかった。 高斗は千早の傍にしゃがみ込むとガムテープを外し、口に詰め込まれていたタオルを取り出した。 「けほっ…けほ…っ」 「おい、大丈夫か!?」 「…………はい、大丈夫です」 千早は思いのほか冷静にそう答えた。 畳に突き刺さっていたナイフを抜き、結束バンドを切ろうとするが、彼の手は激しく震えていて、上手く切れない。 「大丈夫じゃなさそうだ」 「…………」 間違って傷つけないように慎重に結束バンドを切ってやると、千早はしばらく放心した様子だったが、高斗の口の端に血が滲んでいることに気づくと、激しく瞳を揺らした。 「ごめんなさい、巻き込んで…っ、今手当しますね」 千早は立ちあがろうとするが、足に力が入らなかったのかそのままよろけたので慌てて抱き止める。 「すみません」 「いや……」 抱きとめた手に感じる千早の素肌はひどく冷たかったが、まるで絹のようにきめ細かく、その手触りに高斗は目を見開いた。 千早は慌てた様子で身を起こしたが、その時、至近距離で目が合ってしまうと、彼は少し、頬を赤らめた。 かろうじて下着は身に着けているが、ほとんど裸だ。白く滑らかな肌には、さっきの男がつけたらしい真新しい赤い痕がいくつか残っている。 妙に艶めかしいその体をまじまじと見ると、高斗は心臓が強く鼓動を打つのを感じ、咄嗟に押し返してしまった。 千早は少し悲し気に瞳を揺らすと、「すみません」ともう一度言って離れ、高斗と距離を取った。 高斗は「悪い」とバツが悪く言って、千早の肩に、自分のジャケットを被せた。彼はそこでようやく自分の姿に気づいたようで、恥ずかしそうに俯いた。 足元にかろうじてひっかかっているズボンを引き上げると、箪笥の中から適当なTシャツを取り出して着こみ、高斗にジャケットを返した。 「俺のケガは大したことないから、文月さんこそ病院に行った方がいい。あと、警察」 「警察は呼んでも意味ないので……」 「何言ってんだ。ああいう奴はしつこい。必ずまた来るぞ。賭けてもいい」 「通報して、余計に逆恨みされる方が怖いんです」 妙に実感が籠った言い方だった。 「僕、この手のトラブルの常習犯なんですよ。警察も〝またか〟って嫌な顔して…僕の方が悪いって怒られるだけなので。本当に通報しても逆恨みを買うだけなんです」 「そんな訳あるか。なんで文月さんが悪いんだよ。そもそも、あいつとも約束してすっぽかしたって本当なのか?」 「ええ。ちょっとした遊び相手のつもりだったのに、まさか本気にして家に押しかけてくるなんて思わず、びっくりしました」 にこやかに笑って千早は言った。感情を伴わないような笑顔には、何か違和感を覚える。 「でもさすがに今回は怖かったですね。殺されるんじゃないかって……助けて下さり、本当にありがとうございました」 「相手を煽ったにしろ、ここまでやったら普通に犯罪だ。100%向こうが悪い。俺が付きそって説明する。これでも弁は立つ方だ」 もしもみ消そうとしたところで、綾鳥の名前を出せば、血相を変えて動くだろう。だが、千早は首を縦には振らなかった。 「……これ、やっぱりお受けできないので、お返ししますね」 千早は立ち上がると、引き出しの中から昨日高斗が渡したつがい届を差し出してきた。 「……理由を聞いていいか?」 「理由?」 床に散らばったサンドイッチやらクッキーやらを、一つ一つ拾い上げて片付けながら、千早は不思議そうに笑って言った。 「理由もなにも……分かったでしょう。僕も、僕の周りもまともじゃないんです。あなたみたいな人が関わらない方がいい。法的な書類を交わすなんて、言語道断です」 「俺が関わらない方がいいっていうのが理由なのか? 誰とどう関わることかは俺が決めることで、文月さんが断る理由にはならないよな」 「…………」 しばらく、気まずい沈黙が流れた。それを紛らわすように、千早は片付けを再開した。 「これ、わざわざ用意してくれてたのか?」 皿が二つ、ティーカップも二つ。 彼の細い体では一人で食べきれない程の食事や、茶菓子。 拾い上げるのを手伝いながら聞いた。彼は少し、辛そうに目を細めて、言葉を濁した。 「お腹空いてらっしゃるんじゃないかと思って。お忙しいでしょうし、食べる時間もないかと思ったのですが、一応……」 その気遣いに、心が打たれた。 サンドイッチの他にも唐揚げだとか、一口サイズのグラタンだとか、時間をかけずにつまんで食べれるが、手が込んだ料理ばかりだ。それに、どれも手作りのように見えた。 これだけ色々気を遣って用意してくれていたのに、あの男によって、全部めちゃくちゃにひっくり返されたのだと思うと、もう二、三度殴っても、殴り足りないような気がする。 「食っていい?」 「え、ええ? でも、もうグシャグシャで……」 やめておいた方がいいという千早の制止を聞く前に、皿の上にかろうじて残っていたサンドイッチを掴み、口に放り込む。 見た目はシンプルなチキンサンドだったが、野菜がたくさん入っており、マスタードが効いていて異様に美味い。朝も昼もカロリーバーを片手に仕事をしていたので、空腹に染み入った。 「うま……文月さんて、シェフやってたことある?」 「やってませんし、普通かと」 「でも、今まで食った中で一番美味い。……ありがとな」 千早は一瞬、目を見開いて瞳を揺らし、気恥ずかしそうに顔を逸らした。 「……あの、それで。お忙しい中でこんなところまできてもらって本当に申し訳ないですけど、お仕事の話も、やはり辞退できますか? やはりこれ以上、僕に関わらない方がいいと思うので……」 千早は高斗の口端に滲む血を見ながら、ひどく申し訳なさそうに言った。 「断るのは構わないけど、この先どうするつもりだ? コンビニ、クビになったんだろ?」 「どうにでもします。みんながやりたくない仕事を探せば、まだいくらでもありますから。今度こそ、どんなことでもやろうと思ってるんです」 「どんなことでもって……体でも売る気か?」 「それも視野にいれて。Ωって、そのために生まれてきたようなものですから、きっと天職かと。今まで変なプライドがあってやらなかったんですけど、考えてみたら気持ちいいことは好きですしね」 相変わらず、感情のこもらない声でどこか投げやりに、淡々と千早は続けた。 「ああでも、ケガをさせてしまったので、お詫びは必ず。治療費と合わせてお支払い致します。それについてはまた連絡します」 だから今日はもうお帰り下さい。 掠れた声で、千早は言った。 片付けを続ける指先が、未だに震えているのを見て、高斗は得体のしれない激しい怒りと苛立ちに支配された。 その苛立ちは千早に対してなのか。 そうだとも言えるし、違うとも言える。 本人がそれでいいと決意したなら良いじゃないか。 俺にはなんの関係もないことだ。 それに対してあれこれ言う権利はないと、わずかばかりに残った理性の声が言う。 それなのに、このまま黙って、千早の決断を受け入れて、このボロアパートに彼を一人残して去ることが出来なかった。 「……分かった」 「ごめんなさい、本当に。お詫びの言葉もありません」 「文月さんはこれから、いろんな男にその体を売って犯される生活して、ゼムクリップ一本で鍵を開けられるような部屋に住んで、犯罪に巻き込まれても警察には頼らないんだよな?」 直接的な表現に、千早の頬にサッと朱が刺した。 「……は、はい。そうですよ。だからもう……」 「それを聞いて安心した」 「あの? 何が……」 高斗はにこりと笑い、怪訝に首を傾けた千早に近づいて言った。 「今から俺が文月さんを誘拐しても、通報もされないし逮捕もされないってことだから」

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