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第7話 新しい仕事・1

■ 誘拐する。 そう言われた時は、我が耳を疑った。 だが彼は本気で、そう言うなりすぐに千早の体を担ぎ上げると、そのまま助手席に押し込み、車を出してしまった。 悲鳴を上げる暇すらない、あまりに鮮やかな一連の流れ。 車に乗せられた後、呆気に取られていた千早がようやく我に返って、降ろしてくれとどんなに叫んでも彼は一切答えず、無言で車を走らせ続けた。 なぜ誘拐されたのか。 高斗は本当は官僚などではなくその筋の人で、このままどこかに連れて行かれて売られてしまうのか。 Ωを希少動物として、愛玩用に欲しがる悪趣味な金持ちがいるという都市伝説もある。 沈黙の車の中、あれこれ考えたが、どの考えもしっくりこない。 そうしているうちに、車窓の景色はいつの間にか東京の山手の方に差し掛かっていた。 かつては武家屋敷のお屋敷街だったであろう、古く由緒ある街並みが続き、山の手特有の坂道を登っていき、その天辺に建つマンションの前で車が止まった。 石造りの珍しい門構えで、大きな木々に囲まれたその低層マンションは周りの古風な街並みの景観を崩さない。 マンションというよりは、大きな邸宅のようだ。 「降りてくれ」 「………」 拘束などはされていないが強い力で腕を掴まれているため逃げられず、有無を言わさない勢いでそのままマンションの中へと連れて行かれる。 彼はエントランスでコンシェルジュに挨拶をして、話しかけた。 「郵便物また溜まってるか?」 「はい」 若い女性のコンシェルジュは少し苦い笑みで郵便物の山を取り出した。 「後程部屋までお運びしましょうか?」 「いや、それぐらいなら持ってく」 コンシェルジュは郵便物を高斗に差し出すと、後ろで俯いている千早に目を向けた。 「………そちらの方は、お客様ですか?」 「ああ、学生時代の友人だ」 にこやかに嘘を吐くと、高斗は千早を拘束している反対側の腕で郵便物を抱え上げる。 広いエントランスを抜けた先にあるエレベーターに押し込まれて、そのまま最上階へと連れて行かれた。 クラシカルな内装のエレベータの中で、高斗がようやく口を開いた。 「随分簡単に誘拐できたけど……マジで君、大丈夫なのか?」 「なっ……こんな強く掴まれていたら逃げられないでしょう」 「コンシェルジュと話してた時に悲鳴でも上げれば、逃げられたかもしれないのに」 「……」 それはその通りで、千早は何も言い返せなかった。 怖かったけれど、身の危険を感じるほどの恐怖ではなかったというのが本音だ。 誘拐されているというのに、おかしな話だ。 相沢に強姦されそうになったとき、あんなに恐ろしかったのにいつのまにか、手の震えが収まっている。 高斗と離れてあの家に帰る方が、今は恐ろしく感じた。この強く掴まれた手に、不可思議な安堵を感じてしまう。 「人を誘拐するのは初めてだけど、意外と楽だな」 馬鹿にされたような気がして、千早は思わず言い返した。 「初めてとは思えませんでしたけど? あまりに鮮やかな手口だったので、てっきり、その筋の人かと……」 「ハハ、まあ、政界の一部はそこと表裏一体かもな」 高斗が冗談とも本気ともつかないことを言って笑ったとき、ちょうどエレベータが最上階についた。 最上階は、2部屋だけのようだ。 マンションだというのに、玄関までのアプローチがあり、両脇にはライトアップされた木々が植えてある。 2部屋のうちの奥側の部屋に引っ張られ、中に入れられた。 自動センサーで電気がつくと、広々としたリビングが照らされた。奥には庭のようなサンルームがあり、天井は吹き抜けになっていて、二階に続く階段まであった。 「なんですか、この部屋……」 人身売買組織のような人々がいないことには安堵したが、あまりに広い部屋に圧倒され、千早は不審そうに聞いた。 「俺の部屋。もう2週間ぐらい帰ってないけど」 「部屋なんですか、ここ。人住めるんですか?」 昨日高斗に言われたのと同じ言葉が口から洩れた。彼が言ったのとは正反対の意味だったが。 「住めるぞ。まあここで寝たの、数えるほどしかないけどな。職場の仮眠室が俺の本宅だし」 「それで……僕をここに誘拐してきて、どうするつもりですか?」 「決まってるだろ仕事だよ。強制労働」 強制労働という言葉に思わず身を竦ませると、彼は悪ふざけが過ぎたと少しバツの悪い顔をして続けた。 「……ここ、親父が懇意にしてるデザイナーのマンションで、他にも色んな社交事情で無理やり買わされたんだけど、見ての通り一人暮らしには広すぎるんだ。その上、家で寝られる日なんて僅か。職場近くにもっと手狭なマンション買って、ここは売ろうと思ったんだけど、親父が断固反対しててな。ご丁寧にサンルームまで付いてるから、植物の世話までしなきゃいけない。実家の家政婦に通いで維持管理を頼んでたんだけど、先月、年も年だし辞めちゃってさ。ご覧の通り荒れてるんだよ」 リビングは生活感がなく、物も少なかったが、確かにソファの辺りに着替えや物がぐちゃっと置かれていた。 おそらく着替えだけ取りに戻ってソファで仮眠してそのまま仕事に戻るという生活が続いているのだろう。 端正な顔立ちの目元には、今日もくっきりと隈がある。 「人が住まない家は荒れるって言うだろ? なんとかしたいけど、知らない奴に家入られるのが嫌で、なかなか決められずこのザマだ。それで文月さんに、この家のハウスキーパーの後任をお願いしたいって思って。それが、今回紹介したかった新しい仕事。これ雇用契約書」 差し出された紙を恐る恐る受け取ると、その給与額に驚いた。 法外な値段という訳ではない。だが、それにしても今までのアルバイトの賃金とは桁違いに高い。 「金額、おかしくないですか?」 「おかしくない。妥当だ。住み込み家政婦の相場で出したからな」 「住み込み……?」 「ああ。本当は、通いか住み込みか選んでもらおうと思ってたけど、住み込み決定な」 「そ、そんな……勝手に」 「俺は文月さんを誘拐したんだぞ。拒否権はないし、契約書にサインするまで帰さない。このマンションは、カードキーの認証なしじゃエレベーターは動かないしフロアからも出られないからな」 「なっ……」 「とりあえず、この契約書は初回3カ月だ。嫌だったらそこで辞めていい。三か月続ければ、それなりにまとまった金になるだろうし、その時はその金で、危険じゃないような家に引越してくれ」

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