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第8話 新生活・1

■ 誰かのスマホアラームが鳴り、仮眠室に、無常な朝の訪れを告げると、病院のように並んだベッドからまるでゾンビのように同僚達が這い出してくる。 そして高斗もまた、寝不足に痛む頭を押さえて気だるい体を起こした。 時刻は朝6時。 まだ寝ててもいいが、起きてしまったなら仕事をするか。 という精神が骨の髄まで刻み込まれている。 千早を強引にハウスキーパーに雇ったものの、あまりに仕事が忙しく、結局あれから家に帰れないまま二日が過ぎてしまった。 コンシェルジュが一通りの物は用意してくれるとはいえ、アパートの荷物もないと困るものもあるだろうからできるだけ早く行ってやりたい。 千早はいつでもいいと言ってくれたが、きっと気を遣っている。 そんなことを考えながら寝不足に痛む頭を押さえて廊下に出ると、廊下にも、行き倒れたように伏して眠る若い官僚達が点々としている。 「ウォーキングデッドの世界かよここは」 同僚の屍を踏まないように気をつけて歩きながらシャワー室へ向かおうとして、それに気づいた。 「やべ、替えのシャツ切らしてた」 議員との打ち合わせによれよれのシャツを着ていく訳にもいかない。 時刻はまだ6時を回ったところだから、取りに戻るのは余裕だ。 誘拐しておいて、二日ぶりに顔を合わせる理由が忘れ物かと、なんとなく気まずい。 「一応、LINEしとくか。『おはよう。朝早くにごめん。今からシャツの替え取りに家戻るけど気にしないでくれ』」 3分と立たず「わかりました」という短い一文が帰ってきた。 『悪い、LINEで起こしたか?』 『いいえ、起きてました。シャツ、用意しておきますね。洗濯物あったら持って来てください』 『ありがとう。助かる』 『お帰りお待ちしています』 「………………」 (なんか……変な気分だ)  前任の、馴染みの家政婦ともよく電話でこんな会話をしていたのに。 「なに見て笑ってんのー?」 「うわっ」 いきなりスマホを覗き込まれ、高斗は慌てて胸ポケットにしまった。 同僚の青山だ。 死人のような顔色で栄養ゼリーをすすっている。彼も昨晩は仮眠室で寝ていた。 「うわ、ひどい隈。入れ墨みたい」 「うっせーな。お前も似たような面だろ」 「俺はお肌のために二時には仮眠取ったし。……で、何笑ってたの?」 「笑ってねーよ」 「いや、なんかめちゃくちゃ幸せそうに笑ってたよ。その疲れ顔で笑ってんのすげー怖い」 「二徹でハイになってるだけだ」 「ふーん」 青山は含みを持たせた顔でニヤニヤと笑うと、相手が誰だとも言っていないのに「今度絶対会わせてね」とだけ言って、職場へと向かって行った。 ■ 家に戻り、玄関を開けると、最初に鼻先を掠めたのが、パンの焼けるいい匂いだった。 「ただいま……」 恐る恐る中を覗き込むと、室内はたった2日で随分変わっていた。 黒御影石の玄関にはピカピカに磨き上げられていて、サンルームから移動してきたらしい観葉植物が置かれていた。 リビングの棚の上には、花が飾られていて、それだけで殺風景だった冷たい部屋に随分生活感を与えた。 カーテンを閉めっぱなしにしていた大きな一枚窓からは、サンルームから漏れる柔らかい初夏の陽光が差し込んでいて、リビングが随分明るい。 そして何より、パタパタという誰かのスリッパの足音が心地いい。 「あ、おかえりなさい」 エプロン姿の千早が顔を出した。お互い気まずいが、顔を見るとどこかホッとする。 コンビニに通っていた時も、極度の疲労の中彼の顔を見ると、不思議と疲れが取れる気がしていたが、今日はいつも以上に疲れが取れた。 「これで大丈夫ですかね?」 千早はシャツの替えが数枚入った紙袋を持たせてくれた。 「ごめんな、ありがとう」 「いえ……」 少しの間、気まずい沈黙が流れた。すぐ帰るには名残惜しいが、何を話せば良いか分からない。 「あー…そのエプロンいいな。すごく似合ってる」 何が言わなければとようやく出た言葉がそれだった。だが別に、世辞という訳ではない。 家事をするのにエプロンがないわけにはいかないだろうとカタログから選んでコンシェルジュに用意してもらったが、リネン素材のベージュエプロンは彼の細身によく似合っている。 (女物だったらしいが…黙っておこう。似合うし) 直感で選んだが、コンシェルジュからの請求書にレディースと書かれていたので失敗したかと思ったが、全く問題なかったようだ。 やはり自分のセンスは正しかったと高斗は内心満足したが、普段人を褒めることがないせいで妙に照れくさく、千早もまた同じなのか目を逸らし、再び気まずい沈黙が流れた。 その時、躊躇いがちに千早が切り出した。 「……綾鳥さん、朝ごはん、もう食べました?」 「朝ごはん?」 高斗は聞きなれない単語を聞いたというように首を傾げた。 そういえば、人類には朝食を取るという文化があった。 この仕事についてから、まともに食べたことがなかった。 朝食とも、昼食ともつかない栄養ゼリーを吸うのが一応「朝ごはん」だった気がする。 「もし時間があるのなら、少し召し上がって行かれます? ちょうど出来たところなので」 トーストとコーヒーを想像していたが、ひのきのダイニングテーブルに並べられていたのは、焼きたてのパン、クラムチャウダー、サラダ、目玉焼き、フルーツ。 「……海外セレブユーチューバーの朝食動画を見て勉強しましたが、映える朝ごはんは作れませんでした」 ひどく申し訳なさそうに言われた言葉に、高斗は思わず笑いをかみ殺した。 「十分映えてるし、俺海外セレブじゃないから別に映えなくていいんだぞ」 「こんな部屋に住んで何言ってるんですか」 「でもそこで、セレブの動画見て勉強するっていうのがなんか……」 可愛いと言いかけてその表現はおかしいと思い止まったが、他に的確な表現が思い浮かばない。 「なんか……なんですか?」 悪口かと思ったのか千早が少しムッとして追及したが、なんでもないとごまかすように朝食を口にした。 「やっぱ文月さんの美味い……」 口に運びながらしみじみ呟いた。 パンもクラムチャウダーも、素朴な味だが絶妙に美味しい。 「口にあってよかったです」 彼は結構シャイなのか褒めるといつも居心地悪そうに、だがどこか嬉しそうな、とにかく初々しい反応をする。 (……この人、本当に色んな男とヤってんのか??) ふと、妙な考えが頭をよぎった。千早は色々な男と関係していると言っていたが、そんな器用なことが出来るタイプには見えない。 それゆえに、男とトラブルになりがちなのかもしれないが。 普段物静かな人ほど、夜は大胆だったりするというが、千早もそのタイプなのだろうか。 いや、それもなんとなく違い気がする。 だが、男を妖艶に弄ぶ姿はあまり想像出来ないが、恥じらいながら組み敷かれている姿なら──… 「あの?」 「え?」 「いえ、じっとこちらを見ていらっしゃるので…あ、目玉焼きにお醤油いります?」 (やべ、何考えてたんだ……) 相当疲れてるな、と思わず額に手を当てる。 「あ、ああいや、文月さんは食わないのかなって思って」 変な目で見てしまったことへの罪悪感から目を泳がせてそう言うと、千早は笑って首を横に振った。 「僕は仕事なんですよ。後で食べます」 「いや、一人で食べるのも味気ないし…雇い主の相手をするのも仕事だと思って」 千早はそれでも固辞したが、椅子を引いて座るように促すと、スープをよそってパンを取り、大人しく同じテーブルに着いた。 「文月さんてあんま食べなそうだな」 内臓とか骨とか必要な物が入っているのか不安になるようなほっそりとした体を見ながら言うと、千早はパンをかじりながら首を傾げた。 「そんなことないです。食べるの好きですよ、僕」 「酒は行ける方?」 「……正直、あんまり」 「あー、なんか弱そうだな」 「どういう意味です?」 「なんか、真っ赤になってすぐ潰れてそうだから」 「まあ、否定できません」 「今度、この辺りで飲みに行こうぜ。新しい職場の歓迎会ってことで。再来週には国会期間が終わるから、その週末にでも。文月さんのことよく知りたいし、ゆっくり話したい」 「僕のことを?」 不思議そうに千早は首を傾げる。 「あ、詮索したいとか変な意味じゃなくて。なりゆきでこんな関係になったけど、つがいを解消した後も、文月さんとは友人として末永く仲良くして行きたいっていうか」 「…………」 「あ、飲みに行くのとか嫌か? 俺も職場の飲み会嫌だもんな」 沈黙に地味にショックを受けながら「断ってもいい」と言おうとすると、千早は言いにくそうに切り出した。 「……その週は外出が難しくて」 「? 一週間ずっと?」 「はい。あの週……で」 「あの週?」 首をひねっていると、千早は恥ずかしさに耐えかねたというように「発情期ですよ」とヤケのような口調で言った。 「あ、ああー、そうかヒートか……」

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