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第8話 新生活・3

逆光で、少年の表情まではわからなかったが、彼は千早に向かって親しげに片手を挙げた。 「ちーちゃん」 「葵。何しにきたんだよ」 千早は慌てて、少年に歩み寄り、こちらを振り返りながら小声で言った。 「最近LINEも返信ないし、ちゃんと生きてるか様子見に来ただけ。昨日も来たけど留守だったし。今から出かけちゃうの?」 「……そうだよ。後でまた連絡するから」 (葵って…名前どっかで) なんだったかと首を捻っていると、不意に強い視線を感じた。 葵と呼ばれた少年が、高斗を、まるで観察するように見つめている。 それは決して好奇心だとか少年らしい可愛いものではなく、敵意に満ちた鋭いまなざしだった。 (なんだ? このガキ……) 睨み返すのも大人げない。千早の口ぶり的にも大分近しい間柄だろう。 ここは余裕を見せた方がいいとにこやかに会釈すると、葵もにっこりと笑った。 「ちーちゃんの新しい男? それにしてもすごいイケメン捕まえたねー。いつもキモい男ばっかなのに。しかも金持ちそう」 「綾鳥さんに、失礼なこと言うな」 「綾鳥?」 どこかで聴いた事があると言うように、葵が反芻した。 千早が少し緊張した面持ちで、高斗を振り返り、葵を紹介しようとした。 「あの、綾鳥さん。この子は僕の……」 その時、葵は不意に千早に早足で歩み寄ると、頬に手を添えて、すらりとした身を屈めて思い切りキスをした。 ──は? 高斗は突然のことに呆然と、なす術もなく立ち尽くした。 それはまるで映画のワンシーンのように美しかったが、千早が苦しそうに眉を顰めると、唇を離し、耳元で何かを囁いた。 千早の目が見開かれ、微かに揺れる。 葵は呆然と立ち尽くす高斗を振り返るとにっこり笑ってこちらを見た。 「ちーちゃんの彼氏の一人だよ」 「おま…君は学生だろ?」 さすがに学生とはそういう関係ではないだろうと思っていたが、キスを見せつけられて、高斗は正体不明の怒りが腑の底から湧くのを感じた。 拳を握りしめた高斗の苛立ちに気づかず、葵が続けた。 「気をつけた方がいいよ。この人、可愛い顔してえげつないぐらい見境ないから。だって俺の…」 「葵!」 千早はまるで悲鳴のような声をあげて、その先の言葉を止めさせた。 「あーごめんごめん。話してなかったのか。まあ、普通話せないか」 千早は葵が何かを言い出すのではないかと、はらはらしている様子だった。 葵が次の言葉を言う前に、高斗はさえぎるように口を開いた。 「……葵くんだっけ? ごめん、俺はまだ君達がどんな関係なのか分からないし、文月さんのことも何も知らない。実はつい先日、文月さんとつがいになったばかりでね」 書類上だけ、という言葉はわざと隠した。 大人げなくも、対抗心が湧いたのだ。 ほんの一瞬、葵の目が見開かれた。 形のいいその目には憎悪か絶望か悲哀か判断のつかない感情の炎が揺らいだが、それは気のせいかと思うほど一瞬のことで高斗は気づかなかった。 「つがい? あんたみたいな人とちーちゃんが? 嘘だろ」 「嘘じゃない。家に帰れば、国が発行したつがい証明書もある」 「…………目的は?」 「は?」 「一体、なんのメリットがあってこいつとつがいになったのかって聞いたんだよ」 つがい契約は出世のため、とはこの際言えなかった。 それに、相手として千早を選んだことについては利益などなにも考えていない。 「メリットなんて必要ないだろ? この人が相手がいいと思って口説いただけた」 千早が少し驚いた顔をしてこちらを見上げた。その横顔を、葵はなんの感情も籠らない目で見つめていた。 「俺はこれから文月さんのことを色々知りたいと思っているけど、話したくないことを無理に聞くつもりはない。だから君も、俺に文月さんの過去を話してくれる必要はない」 「……へー、随分良いつがい相手見つけたね。何も知らない奴、上手く騙したじゃん」 葵は高斗を、まるで簡単に騙される馬鹿を見るような目で見たあと、千早に向けて天使のように無邪気に笑った。 「今まで何人もの人生狂わせて不幸にしてきた分だけ、幸せになってね」 強烈な皮肉の祝福を言い残して、葵は踵を返した。 二人きりになった廊下で千早は声を無くして立ちつくしていた。 その表情には怒りも悲しみもなく、言われて当然と言わんばかりに受け止めているように見える。 「帰ろう」 背中をポンと叩いて車に誘導すると、千早はうなずいて助手席に乗り込んだ。 狭い車内は気まずい空気で満ち満ちていた。 「あのさ、マジ言いたくないことは言わなくていいよ。最近そういうの厳しいし。コンプライアンスとか…なんか余計なこと聞いたらコンプライアンス違反ですって言ってくれていいから」 人の良さそうな笑みを浮かべて高斗は嘘を並べたてた。 ──マジであのガキなに? ──どういう関係? ──あのガキにも抱かれたのか? 後から後から疑念が湧き上がるのを噛み殺しながら言うと彼は安堵したように小さく頷いた。 「ありがとうございます」 「でもすげーな! 最近のガ…高校生は。進んでるっつーか…あんな流れるようにキスすんだな。見ててビックリした」 千早はそこでようやく表情を崩して吹き出した。 「おじさんみたいなこと言わないでください」 「高校生から見たら20歳超えたらおじさんだろ」 「じゃあ僕もおじさんかぁ…」 千早が少しショックを受けたように言ったので、高斗は笑いながら首を横に振った。 「悪い。年齢自虐は他人を巻き込むよな。でも、文月さんは20歳以下に見えるから大丈夫だろ。さっきの子と同い年ぐらいにも見える」 それだったらさすがに、おじさんの方がいいと、千早は拗ねたように言った。 「葵は昔からマセてるから……」 そう呟いた千早の横顔は、どこか懐かしそうだった。 随分ひどいことを言われていたが、葵に対して千早に憎しみや怒りの感情はないようだ。 何もかもが、ひどく気になる。 だが、余計な詮索はしない。 自分たちの特殊な関係を思えば、それが最善なのだと信じていた。 今思い返してみれば、葵の言った通り、このとき高斗は、千早のことを本当に何も知らなかった。 そして詮索しない、何も触れないということが、自分達の関係をいびつに歪めてしまうということにも、気づいていなかった。 思い返しては、途方もない後悔に暮れる。

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