17 / 76

第9話 ヒートが始まる・4

「医者! 医者、呼ぶか!?」 「だ、大丈夫です……く、すり……っ」 一体どうしたらいいのか分からない。 時折ドラマで突然の陣痛を迎えた妻を前にした夫が情けなくおろおろしているシーンを見かけるが、まさに今そういう状態だった。 とりあえずソファに寝かそうと背中に手を添える。 「あぁ……っ」 ビクッと千早が嬌声としか言えない声を上げて体を震わせたので、高斗は慌てて手を離した。 千早は荒い息をしながら自分の体を抱きしめて震えている。 「ご、ごめん、なさ……」 (エロ……) その姿を見て、高斗は腹の底で、危険な興奮がむくりと頭をもたげたのを感じた。 「く、薬、取ってくる」 「い、いえ…部屋にあるので……僕、今から部屋にこもります……。お仕事、お休み頂きます。ごめんなさい。4日ほど……絶対にドアを開けないでください」 そう言って千早は体を引きずるようにして吹き抜けの階段を上り、自室に向かった。 ひどく苦しそうで、体を支えてやりたいが、また触れたらどうなるか分からず、手を握りしめた。 「千早! 俺、今からホテルに行くから部屋に籠らなくていい」 「です、が、こん、な時間に…っ」 「ホテルは腐るほどあるから気にするな。そのかわり、何かあったらすぐ電話してくれ。近くのホテルにするから、すぐ駆けつける」 千早は潤んだ瞳を揺らしながら、泣き出しそうな顔で言った。 「ありがとう、ございます。ご迷惑を、おか、けして……すみ、ません」 「謝ることじゃないだろ。いいから薬飲んでベッドで体を休めろ」 高斗はそう言うと、千早が後で働かなくていいように残りの片づけを終わらせ、最低限必要な荷物のみを持って家を出て、一番近場のシティホテルに向かった。 その晩、高斗はシティホテルの狭いベッドの上で、まんじりともせず夜を過ごした。 一応、千早に大丈夫かどうかLINEは送ったが返事は来ない。 きっと、それどころではないのだろう。ひどく苦しそうにしていた。 頭に焼き付いた先ほどの千早の姿が鮮明に思い出される。 あんな風に、少し触れただけであられもない声をあげて、もっと触れたらどうなっていたのだろう。 「な、ん……え???」 下半身が明らかに反応を示しているのに気づいてしまい、高斗は絶望した。 人のジェンダーについてとやかく言うつもりはないが、高斗自身は完全なストレートで、どうしても同性に性的興奮を覚える人間の気が知れなかった。 だが、今のコレはまさか、千早に反応したのだろうか。 (いや、溜まってるからだ……そうだ。そうだよな) 高斗は自分に言い聞かせるように言った。 以前は、決まったパートナーはいなくても、青山や周りから紹介される女性と、それなりの頻度で一夜を過ごしていた。 ここ最近、仕事の忙しさもあるが、千早と過ごすため、家にいる時間を長くしたことで、性欲を処理する機会がなかった。 久しぶりに一人で夜を過ごして、忘れていた性欲を思い出した。 この衝動今すぐどうにかしたい。 お互い割り切って体の関係だけを楽しめる女友達に電話しようかと思ったが、それすらまどろっこしい程、欲求が昂っている。 自身の右手を下半身に伸ばし、ハッとした。 (いや、でも今抜いたら千早で抜いたみたいじゃねーか) 高斗は慌ててスマホを取り出すと、適当なアダルトサイトを開いた。 普段ならそれなりの興奮を覚えるはずの女の裸体をスクロールするが、下半身は大した反応を得ない。 それでも、それを必死に見つめながら半ば事務的に昂りを収めていく。 ──高斗さん 「………ッ」 結局最後、欲望を吐き出した瞬間頭に浮かんだのは千早の顔で、高斗は終わった後に強い罪悪感と苦い後悔に襲われて額を押さえて深いため息を吐いた。 「次会う時どんな顔して会えばいいんだよ……」 ■ 「昼デリバリー頼むけど、一緒に頼みたい人~~!」 青山の気の抜けた掛け声に、職場の何人かが手を挙げた。 青山は手を挙げた一人一人に注文を聞いて回っている。 マメな男だ。 さすが愛想だけでキャリア官僚を目指すと豪語しているだけある。 「青山悪い。俺のも頼む。お前のと同じヤツでいい」 「了解」 青山はメモを取りながら、声の主が高斗だと分かると首を傾げた。 「あれ? 千早ちゃんの愛妻弁当は?」 「今日はない」 「はーん、さてはあれか。駿太さんの方がかっこいいから乗り換えるって言われちゃった?」 「ちげーよ」 高斗はうんざりと顔を顰めると、周囲を気にして椅子を近づけ、小声で言った。 「昨日、お前が帰った後すぐにヒートが始まったんだ。だから俺はしばらくホテル暮らしなんだよ」 「えっ、お前がホテル暮らしを? 家主なのに?」 「あんな状態でホテルにやるわけに行かないだろ。外に出せねーよ」 「うーん。お前なら躊躇なく相手を追い出しそうなのにね」 「人を極悪人みたいに言うな」 「いや、千早ちゃんのことを大事にしてて、良いことだよ。てかさ、書類上だけじゃなくてちゃんとつがいになれば別にお前がホテル暮らしする必要ないんじゃない? 千早ちゃんもヒートで苦しい思いすることもなくなるし」 「馬鹿、千早は男だぞ」 一生のつがいなんて、責任が取れない。そのためにわざわざ、間違っても一線を越えない男のΩを契約相手に選んだのだ。 「いや、俺もストレートだけどさあ。……千早ちゃんは、やばいでしょ。Ωだから男でもちょっと女の子っぽい感じなのかなとか、思ってたけど……なんかそういうのより妙にエロいというか。正直見た時〝あ、抱ける〟って思っちゃったんだよね。……痛ってェーーッ」 ピカピカに磨かれた靴を思い切り踏みつけると青山は甲高い悲鳴をあげて机に突っ伏した。 「ひどくない!?」 「千早を汚すな。もう一回言ったら殺す」 「こわ〜〜。てか、お前は大丈夫なの? 一緒に生活してて」 「…………」 昨日のことを思い出して思わず黙り込むと、青山は「ほら」と笑った。 「やっぱりそうじゃん。もうつがいになっちゃえって。千早ちゃんも満更じゃないし」 「お前と一緒にするな。そんなこと、考えたこともないし、つがいを作れと言われたから、機械的につくってだけだ」 青山は素直じゃないねと呆れた顔をしていたが、少しの沈黙の後、真面目な顔をしてスマホを操作しながら言った。 「正直、千早ちゃんみたいな子をフリーのΩのままにしとくのは危なくない?」 高斗のスマホが連続で鳴り、青山からLINEが届けられた。 全てネットニュース記事のリンクだ。 近年、テレビでは報道されなくなったΩを狙った強姦事件がずらりと並んでいる。 「なんのつもりだ?」 見出しを見ただけで嫌な気分になって、スマホを閉じて青山を睨む。 「あとこれも」 ──都内でのΩの連続誘拐事件多発。組織的な犯行か? ──富裕層によるΩの違法売買が横行 ──Ωに強制的にヒートを起こさせる違法ドラッグが蔓延 「……さすがにデマだろ?」 「高斗はアナログ人間だからあんまりネット見ないだろうけど、テレビでは報道されないΩ関係のニュースがかなりあるんだよ。確かにデマかもしれないけど、俺が調べた限り、このニュースに載ってるΩの子達は全員失踪届が出てた」 「………」 「〝なんらかの圧力〟でテレビに出ないって考えた方が自然かもね。Ωは金と性欲を持て余した奴らには最高の玩具だし、α産ませられるし」 ゾワッと冷たい物が背中を這いあがる。 「男のΩなんて珍しいし、ますますマニア受けしそう。そうじゃなくても、Ωは強姦の被害に遭いやすい。もしその気があるなら、早めに……」 「俺には無理だ」 「ああそう。じゃあ俺が口説いてみようかな~なんかちょっと、つがい欲しくなって来たし」 「勝手にしろ」 「はいはい、勝手にしますよ。って、あーーーっ! 高斗のせいでデリバリー頼むの忘れてた!」 半泣きで電話を掛ける青山を横目に、高斗はLINEに送られてきた胸の悪くなるようなニュースを読んだ。誘拐被害も、強姦被害も、つがいを持たないΩが圧倒的だ。 (本当の……つがい) つがいのことを考えると、どうしても母の最期が目に浮かぶ。 彼女はまるでミイラのようにやつれて、直視できない程恐ろしくやせ衰えていた。 ──高斗、おかあさんの姿を目に焼き付けるのよ。いい? お父さんみたいになっちゃダメ αと別れたΩの末路は悲惨だ。 網膜に焼き付いたまま消えないあの母の姿を思えば、軽々しくつがいになど、なれるはずがなかった。

ともだちにシェアしよう!