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第10話 拒絶・2

千早は呆然として、青ざめた顔で開け放たれたドアを見つめた。 (どうしよう……) 気持ちが悪いと思われたに違いない。 信頼していた相手から、急に性の対象にされた時の辛さは誰よりもわかっていたはずだ。 いつも、裏切られたような気分になって、言葉に出来ないような深い絶望に陥る。 小学校のとき信頼していた先生。 遠巻きにされて友人がいなかった千早に、バースなんて関係ないと、一緒に遊んでくれた中学時代の友人。 文月家に馴染めていないのではないかと気遣ってくれた近所のお兄さん。 親切にしてくれたバイト先の先輩。それから──…… そこまで思い出して、千早は嘔気を覚えて慌てて思い出すのをやめた。 (同じことを、僕も高斗さんにしたんだ……) 棚の上に置かれたビニール袋の中には、高斗が買ってきてくれたスポーツドリンクや簡単に食べられるレトルト食品が入っている。 本当に心配して来てくれたのに。 胸を抉られるような罪悪感に襲われ、千早は瞼を震わせた。 高斗の部屋を飛び出し、自分の部屋に駆け込み、布団をかぶって、枕に顔を埋める。 すると、また五分と立たずに体の中から暴力的な〝ヒート〟が沸き上がった。 「もっ……や、だ……」 高斗の服にくるまれたときや、ほんの一瞬、抱き留められたときのどうしようもなく幸せな感覚が蘇り、まるで飢えた獣のようにそれを求めてしまう。 苦しい。苦しい。 千早は悔しさと誰にぶつければいいか分からない憎しみに後から後からあふれ出る涙をこぼした。 「もういやだ……こんな体。どうして……」 どこかに自分ごと捨ててしまいたい。 Ωに生まれてきたことを呪った日々は数知れないけれど、こんなにも生まれてきたことを後悔した夜は、〝あの夜〟以来だった。 ■ 二日後の朝、ヒートはようやくおさまった。 嵐のようなヒート明けは体中が軋む程の疲労に苛まれていたが、洗濯物の山など、やることは山積みになっている。 高斗はヒートが終わっても体調が完全に回復するまでは休んでいいと言ってくれていたが、いつまでも彼にホテル暮らしをさせている訳にはいかない。 だが一体、どういう顔をして会えばいいのだろう。 あの夜の、高斗の戸惑いや、拒絶の力強さを思い出すと、胸が苦しくなる。 千早はそれらの不安から逃れるように、掃除に洗濯にと家事にいそしんだ。 高斗の昼休みの時間帯に差し掛かると、千早は勇気を振り絞り、電話をかけた。 正直なところ彼の反応が怖かった。スマホを持つ手は微かに震えている。 「もしもし? 千早?」 高斗の声はいつもと変わらず優しく、千早はほっと息を吐いた。 「あの、何日もお休みを頂いてしまい、申し訳ありませんでした。ヒートが終わりまして、今日から通常業務に戻りました」 「……そうか、良かった。体調は、大丈夫なのか?」 「はい。もう全快です」 「よかった。無理するなよ。今日は一日休んでていいから」 「いえ。別に病気だったわけじゃないですし……通常通り仕事できます。高斗さんにはずっとホテル暮らしをさせてしまって申し訳なくて」 「そんなこと気にすることじゃないだろ」 「いいえ。それで……あの」 千早は無意識にスマホを握る手に力を籠めると、強い緊張に目をぎゅっと瞑りながら言った。 「今夜は……、家に帰ってきてください」 「…………」 高斗から、返事がない。 千早は焦る気持ちを押さえて、極めて明るい声で続けた。 「夕飯、何がいいですか? せっかくなので好きなものを……あ、そうだ。カレーライスにします?」 「ごめん」 「え?」 「今日、夜遅くなるから……夕飯はいいや。会社泊まりこみになるかもしれないから、帰れねえかも」 「そう、ですか……分かりました。お仕事、また忙しくなっちゃいました?」 そう聞くと、高斗はしばしの沈黙の後に、ひどく申し訳なさそうに言った。 「……ああ。そうなんだ。ごめんな。あ、朝には一回帰る。荷物も取りに行かないといけないし」 「分かりました。お待ちしています。……あまり無理しないでくださいね」 電話を切ると、千早は深い溜息を吐いた。 きっと本当に忙しいのだろう。 若手官僚は国会期間が特に忙しいが、それが終わっても忙しいことには変わりはない。 きっとそうだ。 安心させるように、自分に言い聞かせる。 ちょうどよかった。 今日はまだ、顔を合わせる勇気が出ないと思っていたのだから。 「……カレーは、明日作ろう」 そう呟いてみたものの、明日の夜も、もしかしたら帰ってこないかもしれないという不安があった。 そしてその不安は、的中することになる。 高斗はそれから、朝は毎日帰ってくるものの、夜はあまり家に寄り付かなくなった。 二、三日に一度ぐらいは帰ってくるが、家にいるときは以前よりもどこかぎこちなく、以前はソファに並んで腰かけてテレビを見ていたが、今はわざわざダイニングの椅子に座って見ている。 『今日も、忙しいから遅くなる。先に寝ててくれ。悪い』 千早は広いダイニングルームの隅っこの椅子に腰かけながら、そのLINEを見て、何度目か分からない溜息を吐いた。 「ええと……承知しました、と」 帰れないということは朝のうちに伝えられていたが、もしかしてと思い、一応ビーフシチューを用意していた。 多少遅くなっても、温め直せばいいし、高斗も好物だと言っていた。 だがやはり、今日も帰れないようだ。 (渾身の出来だったのになあ。せっかく薔薇も咲いたのに) ダイニングテーブルの真ん中には、千早が苦心して育てた薄桃の薔薇と、白薔薇が活けられていた。薔薇を育てるのはなかなか手がかかり、園芸素人の千早にはプレッシャーだったが、前の家政婦の手入れが良かったのもあるだろう。見事に咲いてくれた。 高斗に、見て欲しかった。 だが、忙しいのなら仕方ない。高斗にLINEを返し終えると、千早は広い部屋を見渡した。 (一人で住むには、広すぎるな……) 漠然とした孤独を感じていると、不意にスマホが鳴った。 やはり早く帰れるのかもしれないと、まるで飼い主の帰りを待ちわびる犬のようにスマホに飛びつくと、青山からのLINE通知が表示されていた。

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