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第11話 まるで、恋人のように・2

あんなに夢中でセックスをしたのは初めてだから、こんなにも眠くて幸せな朝も初めてのことだった。 明け方に寝て、三時間程しか眠っていないから、いくら不眠に慣れているとはいえ、さすがに眠い。 だが、仕事の徹夜明けの眠さや怠さとは全く異なる、心地の良い眠気だ。 あくびを噛み殺しながら職場の自席につくと、暇そうに夏のリゾート特集雑誌を読みふけっていた青山が、含みを持たせた声で話しかけてきた。 「おはよう高斗。……今日は随分眠そうだねー」 「…………」 「ちょっとちょっと、なんで無視すんの? あー、俺が千早ちゃん食っちゃったからかぁ。チャラくてごめんね」 「お前……」 怒りを堪えきれずに睨みつけると、青山はうんざりしたように言った。 「あんな写真でマジでヤッたと本当に思ったなら、素人童貞すぎて引く」 「……ヤッてないのか?」 「さあね〜」 青山の言い分からすると、99%何もしていないのだろう。そのことに、自分でも驚く程に安堵していた。 他の不特定多数の誰と寝られるより、青山と寝られる方が嫌だった。 なぜなら青山は、千早にとって〝良い相手〟だからだ。 もし千早がどうしても青山の元に行きたいと言ったとして、彼の幸せを一番に考えるならば、到底引き止められない。 だからこそ、高斗にとってはこの男が一番恐ろしかった。 「で? そういう高斗は? 昨日はあの後ヤッた?」 「…………」 沈黙すると、青山は肯定と受け取ったのだろう。 微かに眉根を寄せて黙り込んだ後に、いつもの胡散臭いほど明るい笑みを浮かべて高斗の肩をポンと叩いた。 「ヤッたのか〜。素人童貞卒業おめでとう!」 「は?」 「だって、好きな子と人生初セックスっしょ? 卒業じゃん」 「好きな…子?」 今言われた聞き慣れない言葉を反芻すると、青山はその反応に「え」と苦笑した。 「あんだけ固執してストレートなのにセックスまでして、あげく俺のこと殺しそうな顔で見るぐらい嫉妬してて恋じゃないって言われたらびっくりなんだけど」 「恋? これが、恋なのか…?」 「初めて感情を知ったアンドロイドみたいな言い方しないでくれる?」 青山は馬鹿にしたように笑ったが、高斗にしてみれば笑い事ではない。 もし恋だとしたら、自分は人を好きになったということだ。 それは高斗には欠落した感情だったはずだ。 自分には、母を最期まで苦しめた、行き過ぎた合理主義者の冷酷な父と同じ血が流れていて、生まれつきそういう欠陥があるのだと思い込んでいた。 愛だけに生きて悲惨な末路を遂げた母は、高斗をほんの少しも愛してはくれなかった。 高斗が何を話しかけても、どれだけ泣いても振り向かれることはなく、彼女の口から出てくるのはいつも父のことだけだった。 誰からも愛されなければ自分で愛を知る術はなく、唯一知っている愛の形というのは、母の父に対する恐ろしい執着で、それはひどく歪で醜い形をしていた。 愛とはリターンのない投資で、人生を破滅させて貧困の奈落に堕とす理不尽なものだ。 自分にはそんなものはいらない。 金と地位だけが分かりやすく自分の人生を豊かにしてくれる。 このまま誰を愛することもなく、上に行くことだけを夢見て、金と地位だけで合理的に選んだ相手と結婚し、義務として子供を作って死ぬのだとずっと思っていた。 だが、もしかしたらそうじゃないのだろうか。 その時ふと向かいの席から、「今日夕方から雨だって」「マジかよ傘忘れたー」という会話が聞こえてきた。 朝出かけるときに、千早が疲労困憊の体を引きずって玄関まで来て持たせてくれた折り畳み傘を思い出し、思わず笑みが零れる。 ──午後から雨ですから気をつけて この一ヶ月余り、どんなに疲れていても、千早はいつも高斗を気にかけてくれていた。 それは単純に、真面目な彼の仕事の一環なのかもしれない。 それでも、幼い頃から冷たい孤独の中にいた高斗にとっては嬉しかった。 梅雨なんて、煩わしいばかりだと思っていたのに、何気ないことでじわじわとした幸せを感じる。 日常のあらゆることが、傍に彼がいるだけで楽しめるようになった。 それに気づいた時、なぜか無性に、嬉しくて泣きたいような気分になった。 (そうかこれが……) これが、人を好きになるということなのかもしれない。

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