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第12話 決意・6

部屋の奥から突如現れたエプロン姿の女性はそう言って美しく微笑んだが、まったく見覚えのない顔だった。 「は……? 誰、だ」 激しく混乱する頭の中で、高斗はやっとそれだけ絞り出した。 おかしい。 このマンションはエントランス、エレベーター、各部屋の三か所でIDカードを使用しなければ入れない。 カードを持っているのは、高斗と、スペアキーを持つ千早だけだ。24時間体制でコンシェルジュもフロントに座っており、部外者が入ってきたら必ず声をかける。 「こちらでハウスキーパーを務めるようにと、派遣されて参りました」 「そんなもの……」 頼んでいないと言おうとして、高斗は拳を握りしめながら言った。 「……親父か」 高斗が所有している部屋は分譲で、マンション自体のオーナーは父だ。 こんなことが出来るのは、父以外に考えられない。 もしくは、父が加賀谷に指示してやらせたかのどちらかだ。 女性はそれに対して肯定するようにゆっくり頷き、高斗に一歩近づいた。 「食事のご用意がございます。それから、お風呂の用意も。……お背中を、流しましょうか」 至近距離まで来た女の、表情と匂いに気づき、高斗は慌てて手で鼻と口を覆った。 (この女、Ωだ……) どこか蕩けたような表情と甘い匂い。 薬である程度は抑制しているのだろうが、おそらく、ヒート中のΩをよこしたに違いない。 (あのゲス野郎…っ) 女は挑発するようにブラウスのボタンを外した。 至近距離でヒートのフェロモンを浴び、無理やり火を点けられるような不快な興奮はあるものの、不思議と欲情はしない。 千早のヒートに遭遇したときのようなあの暴力的な興奮も欲情も沸き上がらない。 それよりも、生理的な気持ち悪さと父親への怒りと嫌悪感の方が強かった。 「親父の命令でよこされたなら君は悪くないけど……俺にしてみれば不法侵入者に変わらない。今すぐ出ていかなければ、警察を呼ぶ」 だが、女は立ち去らずにさらに一歩、高斗に近づき、背に腕を回した。 「一度ぐらい試してみない? 男のΩじゃなきゃ勃たなくなっちゃったかわいそうなアナタを助けてあげるわ」 「出てけって言ってるだろ。女に手は上げたくねーんだよ」 「そんなに怖い顔しないでよ」 「悪いがもう、我慢の限界だ。三つ数える間に離れなければ警察に電話する。三、二、一……」 スマホの画面に110と番号を表示させて発信に親指を近づけると女は、高斗の背中に手を回したまま渋々と言った具合に少し体を離した。 そのまま肩を掴んで引きはがそうとしたとき、IDカードをかざすピッという音がして、玄関のドアが開いて、買い物袋をぶら下げた千早が嬉しそうに息を弾ませて駆け込んできた。 「ただいま、高斗さん。走ったら思ったより早く帰れました! しかもスーパーにも寄れて、タイムセールで果物がすごく安くなってたので、デザートにもう一品買っ、て………あれ? どちら……さ…ま……」 高斗に抱きついている女を視線の先に捉え、千早の目が大きく見開かれた。手にしていたビニール袋が床に落ち、中に入っていたリンゴがゴロゴロと転がっていく。 女は千早に気を取られた高斗の不意をついてキスをすると「またね」と親し気に言って家を出た。 千早はしばらくの間呆気にとられたように立ち尽くしていたが、やがて我に返ると、落ちた赤いリンゴを拾い上げて笑った。 「うわ、びっくりしたなーもう。すみません、お邪魔してしまって。どこかで時間潰してきますから、早く追いかけて下さい」 そう言って出て行こうとする千早の腕を、高斗は慌てて掴んで引き止めた。 「違う。あの女は全然知らない奴で、帰ってきたら家にいたんだ」 千早は何を言っているんだという風に笑う。 「……僕のボロアパートならともかく、ここ、高斗さんのIDカードがないと入れないでしょ?」 確かに、状況的には高斗が女を家に入れたとしか考えられないだろう。 「だから多分、親父が勝手によこしたんだよ。マジで全然知らない女だ」 混乱する頭で必死に誤解を解こうとするが、その様子が、まるでいかにも浮気現場に対して、無茶な言い訳をする男のように千早の目に映ったのかもしれない。 彼は焦る高斗を見て、おかしそうに笑った。 「なんでそんなに焦ってるんですか? 僕たちが恋人だったら修羅場ですけど、違うんだからいいじゃないですか。詮索する気ないですし、説明しなくていいですよ」 まるでどうでもいいことのように、千早は笑って言う。 その様子に、微かに残っていた淡い期待が脆くも崩れ落ちていく。 絶望の底に沈んだ心に、追いうちをかけるように千早が言った。 「むしろよかったです。高斗さんは恩人だから最優先ですけど、僕もたまには他の人ともしたいし。これからはもっとお互いオープンに、気楽にいきましょうよ。こういう風に鉢合わせすると、逆に気まずいですから」 「……ああ、そうだったな。お前は最初からそういうスタンスだった」 暗く沈んだ顔で、高斗はそう答えた。 プロポーズなどしたところで、ハナから一片の望みもない。一方的な感情。 千早が優しいのは、高斗が〝恩人〟だからであり、基本的に誰にでもこうなのだと思う。 自分は千早が他の男に抱かれることに対して気が狂いそうな程の嫉妬を覚えても、その逆はない。彼は高斗に対して何の執着心も、特別な感情もない。 「……ああそういえば、さっきの人ってΩですよね?」 千早は「匂いで分かってしまったんですけど」と付け加えながらおずおずと聞いた。 「ああ」 頷くと、千早は「やっぱり」と笑った。 「僕との番、いつでも解消していいですからね」 「………」 父に番を取り替えろと言われて自分はあんなに激怒したのに、軽くそれを口にする千早に怒りが湧く。 分かっている。 これは理不尽な怒りだ。 千早が高斗をどう思っていようと彼の自由なのだから。 「……ああ。あの女の方が気に入ったら、その時は言うよ」 もはや反論する気力も失せ、苛立ちを滲ませながら投げやりにそう言うと、千早はにこやかに頷いた。 「さてと。じゃあ僕はバイトで疲れてしまったので、ちょっとお部屋に失礼しますね。後でお皿とか洗っておくのでそのままでどうぞ。ご飯は……全部、用意して下さってるみたいですね。冷蔵庫にあるやつは、僕が食べますから、そのままでいいですよ」 そうして、千早は足早に二階の自室へと上がって行く。そのいつも通りの姿勢の良い後ろ姿を見つめて、高斗は深い溜息を吐いた。 恋が叶わないことに気づいたとき、多くの人は甘く苦い痛みと共に諦めるのだろう。 初恋は実らないという話はよく聞く。 だが、高斗はとても諦めきれられそうになかった。 キラキラと輝くばかりだった千早への恋という感情が、少しずつ黒く、歪み初めていることに気づいた。

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