36 / 76

第13話 傷痕・1

自室のドアを閉まると同時に、こみ上げてきた嗚咽を堪えて、千早は俯いた。 音もなく後から後から涙が零れ落ちるのを、手の甲でごしごしと拭い、何度か深呼吸をすると、ようやく涙が止まる。 涙をすぐに止めるのは昔から得意だ。 千早が泣いていると一見〝被害者〟に見えてしまう。 だが、自分はいつも本質的に〝加害者〟であり、泣く資格などない。 高斗は千早をずっと大事にしてくれていた。 千早が傷つけられたときは、千早以上に怒ってくれて、こんな自分と、この先も一緒に居たいと言ってくれていたのだ。 こんなに誰かから大事にして貰ったのは、生まれて初めてのことだ。 それをはぐらかし続け、気持ちを踏みにじり続けてきたのは千早の方なのに、高斗がよりによって、〝Ω〟の女性を腕に抱いているのを見たときは、自分でも驚くほどのショックを受け、足が震えてしまった。 心の奥底では、本当は密かに夢見ていたのかもしれない。 彼といつか、フェイクではなく本当の番になれたらと。 そんな未来、あってはならないのに。 一体、彼らはいつから関係していたのだろう。 高斗は意外と潔癖なところがあり、あまり家に人を招きたがらない。それは青山も言っていたことだ。 そんな高斗が彼女を家に上げて、手料理を作ってもらい、キスもしていたのだ。 それも、千早が出かけているタイミングを狙って。 (言ってくれればよかったのに……) そうすれば絶対に今日は家に帰らなかった。邪魔するつもりはなかったし、何より見たくなどなかった。 自分の中に、こんなに強い嫉妬心があったことに困惑する。 (嫉妬なんて……する権利ないのにな) それから長いこと、込み上げてくる涙を必死でこらえてやり過ごしていたが、不意に胸元のポケットでバイブが鳴った。 久しぶりに来た葵からのLINEだった。 半月前に街中で偶然会った後、千早は何度かLINEをしたが返事はなく、家を訪れても、彼は留守にしていて、全く顔を合わせられなかった。 『10分で来い』 いつも通りの無茶苦茶なメッセージに、千早は思わず笑ってしまった。 文月の家に行くのはいつも臓腑が冷えるほど勇気がいるが、それでも今は、出かける口実が欲しかった。 そっと部屋から抜け出し下に降りると、高斗はシャワーを浴びているようだった。 食事は済ませたのだろう。皿も洗ってくれている。 (あの人のご飯……食べたのかな) 時間がない中で、それなりに苦心して作った自分の夕食のことを考えると、少し切なくなる。 千早は「外出する」と書置きを残すと、そっと家を出た。 ずっと葵が留守で入れなかったから、文月の家の中に上がるのは久しぶりだ。 千早はトラウマを拒絶するように早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと深い呼吸を繰り返し、インターフォンを鳴らそうとしたが、それよりも先に、ドアが開いた。 「遅いんだよ」 電気もついていない玄関から、葵が不機嫌そうな顔を出した。まだ高校生のはずの彼から、タバコの匂いがする。 それを注意しようとしたが、彼は千早の胸倉を掴んで乱暴に引っ張りこまれてしまった。 足の踏み場もない酷い惨状に、千早は眉を顰めた。あちこちに、空きビンや缶や雑誌が転がっている。 こないだ来た時よりもひどかった。生ごみだけは捨てているのか、見当たらないのが逆に不安になる。ちゃんと食事をとっているのだろうか。 「何だこれ……ちょっと見ない間に、どうしてこんなになるんだ?」 「だから清掃員呼んだんじゃん。片しておいて」 千早は「まったく」と呟くと、空きビンやら缶を拾い上げていったが、そのラベルを見て、千早は驚愕の声を上げた。 「これ……ほとんどお酒じゃないか! お前、高校生だろう。タバコも吸ってこんなにお酒飲んで。体を壊すぞ。それに、学校に見つかったら退学だ」 「親みたいに偉そうにするのやめてくれる? 俺から親を奪っておいて」 何も言えずに、千早は黙り込むと、葵はその反応に気をよくして鼻で笑うと、詰るように言った。 「あの官僚と一緒になって、随分幸せみたいだね。あんたがそんな顔色してるの、生まれて初めて見た。ガキの頃からいつも顔真っ青で、ガリガリだったのに」 「…………」 そう言う葵はひどい顔色だった。 金髪に隠されたそのこめかみに異変を見つけると、千早は慌てて詰め寄った。 「……葵? そのケガどうした?」 陶器のように滑らかで美しい肌の一部紫色になり、血が滲んでいることを指摘すると、葵はチッと舌打ちした。 「喧嘩」 「誰と? 友達か?」 「んな訳あると思う? 今時殴り合いの喧嘩なんてするかよ」 「じゃあ、どうしてそんな……」 「ババアに殴られたんだよ。あんたがあの官僚と楽しくやってるとき、俺はあの気が狂ったババアにボコボコに殴られてた」 千早は一瞬、声を失い、拳を握りしめた。 ひどい罪悪感がさざ波のようにざわざわと押し寄せてくる。 「……病院には行ったのか?」 「病院なんて行ったら虐待疑われてめんどくさいじゃん? 一応未成年だし」 「どうしてそのとき、連絡してくれなかったんだよ」 「あんたを呼んだら、ババアはもっと気が狂うだろ。あんたのこと、生まれてこなければよかったのにって毎日呪ってるよ。次会ったら殺される。あんなんでも一応母親だから、殺人鬼にする訳にはいかないんだよね」

ともだちにシェアしよう!