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三十五話 本当に忘れてたんです。

 現実に戻ってきた。  旅行から帰ってくると、何も変わらない日常が戻ってきた。何もかもが夢だったかのように、何も変わらない。仕事もプライベートも、旅行に行く前のままだ。 (夢、だったのかな)  康一に逢って、抱き合ってキスして、恋人になったことが夢だったかのようだ。  あれから一週間。連絡をすると言った康一から、一切の連絡がない。  オフィスのデスクに向かって、書類を作成しながらスマートフォンをチラリと見た。相変わらず、着信はない。旅行に行ったお陰で忙しいのかもしれない。けど、メッセージの一つくらいくれても良いのに。  そう考えながらも、自分もまた、メッセージを送れていなかった。  連絡をくれると言っていたから、素直に待っていたというのは言い訳だろう。なんと送って良いか解らない。考えてみれば、誰かと付き合うのなんか初めてのことで、どんな会話をしていいか解らなかった。良い歳して、中学生みたいな悩みだと思う 「先日はありがとうございました」とか、それっぽいことを送れば良かったのに、既に時期を逃してしまった気がする。今更言うには遅い気がして、また何を言って良いか解らなくなった。 (俺、コミュニケーション下手な方ではないと思ってたんだけど……)  営業をやるくらいには、出来ていると思っていたが、これじゃあダメ過ぎる。肝心なところで小心者で、動けないのではお話にならないではないか。  キーボードを叩く手を止め、不意に疑心暗鬼になる。 (もしかして……弄ばれた、とか)  あんな風に振った俺を、怒っていたはずだ。康一がそんなことをするか? とは思うが、不安が余計な妄想を掻き立てる。  だって俺はまだ、康一のことを何も知らない。  勿論、康一が嘘を吐いたとは思っていない。赤澤の姓を捨てたら良いのかとまで言わせてしまったのだ。信じないなんて傲慢すぎる。  けれど、信じる理由が薄いのも事実なのだ。裏打ちできるほどの付き合いはない。たった一度寝ただけだった。たった一度、デートしただけだ。あんなに執着される理由が解らない。せめて、一目惚れだったとか言ってくれれば。 (―――『好き』とは言われてないんだよな……)  ズキンと、心臓が鳴る。  こっちは、一目惚れだ。けど、康一は解らない。惹かれているがイコール『好き』とは限らないだろう。興味を示しているのは本当だろうが。 「……」  頭のなかがぐちゃぐちゃで、集中できそうにない。こんなにグズグズとしているなんて、我ながら自分が嫌になる。    ◆   ◆   ◆  昼休みは珍しく社内で過ごしていた。外回りが多いせいで外食が多いのだが、今日は内勤だ。旅行もあったので節約に、弁当を作ってきたのである。とはいえ、フロアで食べるのは女子社員が多いため、悪目立ちはしたくない。外階段に座って、ぼんやりと外の風景を眺めながらのランチだ。  気温が高くなってきたが、風はまだ涼しかった。オフィスが面する通りには、ランチに向かう会社員の姿が見える。いつもならあの中に自分がいるのだと思うと、少しだけ変な感じだ。  ブロッコリーを口に運んだところで、不意にポケットに突っ込んでいたスマートフォンが震えた。会社に持たされている、支給のスマートフォンの方だ。昼休みだというのに、いったい誰だろう。 「え?」  思わず声に出てしまった。ディスプレイに、『サイバーミューズ 赤澤康一』と表示されていた。 (え? なに? どういうこと? 仕事の、電話?)  混乱しつつ、受話ボタンをタップする。 「もしもしっ……、お疲れ様です」  ひとまず、仕事モードで電話を受ける。プライベートのスマートフォンには連絡がなかったのに、どうしたのだろう。何かあったのだろうかと、電話の向こうの返事を待った。 『寛之さん―――どうして僕が、こっちにかけてるか解ります?』  康一の声色に、僅かに苛立ちを感じてギクリとした。何故か、怒っている。 「っ、え? どうしてって―――」  言いかけて、はたと気がつく。  当然、康一はプライベートの連絡先に連絡をくれるつもりだったはずだ。だが、会社のスマートフォンに着信があった。  電話の向こうから、溜め息が聞こえた。 「っ……! あ!」  ハッとして、青くなる。 「すっ、すみません! ごめんなさい!」  俺、康一の連絡先、拒否したままだ。 (最悪だっ……!)  道理で、康一が連絡をしてこないはずだ。今日まで会社の方に連絡をしなかったのは、康一にも思うところがあったのかもしれない。どう言い訳しようか、謝罪しようか迷っていると、電話の向こうから淡々とした声が響いた。 『良いですよ。次に逢うときは、サービスしてくれるんですよね』  拒否権など、有るわけない。俺は空笑いを浮かべて、康一の言葉に背筋を凍らせた。

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