35 / 90
三十五話 本当に忘れてたんです。
現実に戻ってきた。
旅行から帰ってくると、何も変わらない日常が戻ってきた。何もかもが夢だったかのように、何も変わらない。仕事もプライベートも、旅行に行く前のままだ。
(夢、だったのかな)
康一に逢って、抱き合ってキスして、恋人になったことが夢だったかのようだ。
あれから一週間。連絡をすると言った康一から、一切の連絡がない。
オフィスのデスクに向かって、書類を作成しながらスマートフォンをチラリと見た。相変わらず、着信はない。旅行に行ったお陰で忙しいのかもしれない。けど、メッセージの一つくらいくれても良いのに。
そう考えながらも、自分もまた、メッセージを送れていなかった。
連絡をくれると言っていたから、素直に待っていたというのは言い訳だろう。なんと送って良いか解らない。考えてみれば、誰かと付き合うのなんか初めてのことで、どんな会話をしていいか解らなかった。良い歳して、中学生みたいな悩みだと思う
「先日はありがとうございました」とか、それっぽいことを送れば良かったのに、既に時期を逃してしまった気がする。今更言うには遅い気がして、また何を言って良いか解らなくなった。
(俺、コミュニケーション下手な方ではないと思ってたんだけど……)
営業をやるくらいには、出来ていると思っていたが、これじゃあダメ過ぎる。肝心なところで小心者で、動けないのではお話にならないではないか。
キーボードを叩く手を止め、不意に疑心暗鬼になる。
(もしかして……弄ばれた、とか)
あんな風に振った俺を、怒っていたはずだ。康一がそんなことをするか? とは思うが、不安が余計な妄想を掻き立てる。
だって俺はまだ、康一のことを何も知らない。
勿論、康一が嘘を吐いたとは思っていない。赤澤の姓を捨てたら良いのかとまで言わせてしまったのだ。信じないなんて傲慢すぎる。
けれど、信じる理由が薄いのも事実なのだ。裏打ちできるほどの付き合いはない。たった一度寝ただけだった。たった一度、デートしただけだ。あんなに執着される理由が解らない。せめて、一目惚れだったとか言ってくれれば。
(―――『好き』とは言われてないんだよな……)
ズキンと、心臓が鳴る。
こっちは、一目惚れだ。けど、康一は解らない。惹かれているがイコール『好き』とは限らないだろう。興味を示しているのは本当だろうが。
「……」
頭のなかがぐちゃぐちゃで、集中できそうにない。こんなにグズグズとしているなんて、我ながら自分が嫌になる。
◆ ◆ ◆
昼休みは珍しく社内で過ごしていた。外回りが多いせいで外食が多いのだが、今日は内勤だ。旅行もあったので節約に、弁当を作ってきたのである。とはいえ、フロアで食べるのは女子社員が多いため、悪目立ちはしたくない。外階段に座って、ぼんやりと外の風景を眺めながらのランチだ。
気温が高くなってきたが、風はまだ涼しかった。オフィスが面する通りには、ランチに向かう会社員の姿が見える。いつもならあの中に自分がいるのだと思うと、少しだけ変な感じだ。
ブロッコリーを口に運んだところで、不意にポケットに突っ込んでいたスマートフォンが震えた。会社に持たされている、支給のスマートフォンの方だ。昼休みだというのに、いったい誰だろう。
「え?」
思わず声に出てしまった。ディスプレイに、『サイバーミューズ 赤澤康一』と表示されていた。
(え? なに? どういうこと? 仕事の、電話?)
混乱しつつ、受話ボタンをタップする。
「もしもしっ……、お疲れ様です」
ひとまず、仕事モードで電話を受ける。プライベートのスマートフォンには連絡がなかったのに、どうしたのだろう。何かあったのだろうかと、電話の向こうの返事を待った。
『寛之さん―――どうして僕が、こっちにかけてるか解ります?』
康一の声色に、僅かに苛立ちを感じてギクリとした。何故か、怒っている。
「っ、え? どうしてって―――」
言いかけて、はたと気がつく。
当然、康一はプライベートの連絡先に連絡をくれるつもりだったはずだ。だが、会社のスマートフォンに着信があった。
電話の向こうから、溜め息が聞こえた。
「っ……! あ!」
ハッとして、青くなる。
「すっ、すみません! ごめんなさい!」
俺、康一の連絡先、拒否したままだ。
(最悪だっ……!)
道理で、康一が連絡をしてこないはずだ。今日まで会社の方に連絡をしなかったのは、康一にも思うところがあったのかもしれない。どう言い訳しようか、謝罪しようか迷っていると、電話の向こうから淡々とした声が響いた。
『良いですよ。次に逢うときは、サービスしてくれるんですよね』
拒否権など、有るわけない。俺は空笑いを浮かべて、康一の言葉に背筋を凍らせた。
ともだちにシェアしよう!