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第43話

 がぜん勇み立ち、それでいてキス泥棒に成功するどころか、いきなり電池が切れたように躰が動かなくなった。きょとんとする羽月を尻目に、 「トイレを借りたい」  涼太郎は敏捷に席を外す。  チーン、と(りん)が鳴ったように感じて無常観に囚われた。羽月は天を仰ぎ、ずるずるとソファに沈んだ。やることなすこと裏目に出るとは、童貞くんの防衛本能は装甲車数百台分の防備力に匹敵するほどすさまじいものなのか。それでも涼太郎が戻ってくると、蜘蛛の糸をたぐり寄せる思いで質問を投げかけた。 「むかぁしはキズモノとか婚前交渉とかって言い方があったらしいじゃん。白石くんは家訓的に婚前交渉はNGなんだよね?」 「むろん、プラトニックラブが理想ではある」  藪蛇に終わり、力なく笑う。プラトニックラブなんてもはや前世紀の遺物、漫画や小説の中にのみ存在するものじゃないのか?   羽月は、ちょっぴり意地の悪い表情を浮かべた。 「じゃあさ、恋人ができてむらむらしても、ポリシーを優先するんだ。非婚率がうなぎのぼりの現代日本、七十のじいさんになっても童貞を守ってたりして」 「それは、極論ではないのか」 「事実でしょ。せっかく男の子に生まれたのにマスかき専門じゃ、ナンセンス」  涼太郎がへどもどしている今こそビッチの底力を見せて押しまくれ。さっそく前にのめり気味に膝立ちになった。妙なこだわりを捨て去ることが双方の幸せにつながる。ペニスへと至る道は険しいままなのか、平坦になるのか、その鍵を握るものはペニスに対する執念だ。  目が合った。お互い自説の正しさを証明するように見つめ合った。羽月は目力勝負にはなみなみならぬ自信がある。何しろ流し目ひとつで落としたペニスの数は、百ではきかない。  真剣勝負の様相を呈し、涼太郎は真っ向から受けて立つ。勝敗の行方如何(いかん)によっては、童貞の卒業式が挙行される運びになるとは、当人は知る(よし)もない。  一分、二分と経過しても根競べのように見つめ合ったままでいた。いつしか視線が持つ意味に別の要素が加わったように、ふたりの間で醸し出されるものに変化が生じはじめる。  試しに科白に置き換えると、 「あんまり見つめちゃ、いやぁん」 「そっちこそ、ガン見するなよぉ」  といった、バカップルが憑依したような甘さをはらむ。それに比例して唇と唇の距離がじりじりと縮まっていき、ところが磁力が働いているように重なり合う寸前、部屋の外で火災報知機が鳴った。 「嘘、おれら焼け死んじゃう感じ?」  おたつく羽月にひきかえ、涼太郎は冷静そのものだ。 「避難訓練でやったことを思い出せ。鼻と口を布または掌で覆い、腰をかがめて比較的新鮮な空気が残っている壁伝いに逃げる。先輩、行くぞ」 「無理、腰が抜けた」 「世話が焼ける人だ」  苦笑を浮かべた顔が背後に移動するか、しないかのうちに、腋の下と膝の裏に腕が差し込まれて横向きに躰が浮いた。

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