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第10話

 バケツに水を汲むところから率先してやり直して、復習だ、とモップを渡せば設楽は一も二もなくそれを受け取る。素人考えにすぎなくても設楽のなつきようは、雛がこの世で最初に目にしたものを親だと思いこんで慕う〝刷り込み〟という現象に近い気がする。  などという私見はさておいて。気障ったらしくて煮ても焼いても食えないようで、キスを景品扱いして憚らなかった男が、今やおれを「さん」づけで呼ぶ。  これが演技なら設楽は稀代の名優で、記憶を失うのにともなって性格じたいが百八十度変貌を遂げちゃうのは人体の神秘だなあ……とつくづく感心する。 「驚かすと、しゃっくりは止まる。ブラウン管時代のテレビは叩けば映りがよくなった」  剣呑な気配を察して振り向けば、愛用の竹刀を上段に構えた沢木と目が合う。 「素振りをするなら道場でやってよ」 「いいや、そいつの頭をぶっ叩く。脳みそのどこかの回路が接触不良を起こしてるなら、ショック療法を試すのも、だろうが」  沢木は静謐さをたたえて竹刀を振りかぶり、設楽は必殺の一撃が炸裂する地点に突っ立ち、おれは、のんびり者の設楽を背中にかばう。 「ショック療法が裏目に出て、本物のパーになったら元も子もないでしょうが。もっと、ほかに何かスマートな方法が……」  悪戯心が起きた。さっそく特製ドリンクをこしらえると設楽に「あ~ん」と猫なで声で囁きかけて、ぱかっと開いた口に毒々しいオレンジ色の液体そそぎ込んだ。  喉仏が上下した。その数秒後、設楽は鳩尾をかきむしりながらのたうち回り、水っ! と絶叫すると一目散に駆けだした。 「まさか……一服盛ったんじゃあるまいな」 「トマトジュースのハバネロの抽出液割り。殴るより、辛み成分のほうが効き目があるかもだから、ダメもとで飲ませてみた」 「なんつー、えげつない真似を。ほら、ゲエゲエやってるのを介抱してやれ」  洗面所に追い立てられて、水をがぶ飲みしては洗面台につっぷす設楽の背中をさすった。誰かをかまうのが無性に楽しい、と思うのは妙に甘え上手だった不倫男と蜜月を送っていたころ以来のことだ。その相手が、わだかまりがないこともない設楽というのは傑作だ、と噴きだした翌夕、暇つぶしにダイスで遊んでいたさなか、特筆に値する出来事があった。

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