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第23話
設楽が愛しい──と、そう思う気持ちの万分の一でも伝わることを冀 って、紫がかってひび割れた唇に唇を重ねた。
かさかさだった唇がキスで潤いを取り戻していくと、胸がきゅんとなる。設楽がおずおずと唇をついばみ返してくると、涙腺がゆるんでしょうがない。
あふれる端から涙が吸い取られていくと、塩辛い唇のあわいに嗚咽がくぐもる。それでいて『かけがえのないわんこ』と交わすくちづけは、世界中でいっとう甘い。
とびきり、甘い。
夜のベールが、しずしずと街を覆っていく。おれのコートを半分こにして羽織った中で設楽と寄り添い、手をつなぐ。からめ合った指を通して温かなものが流れ込んでくるような心地よい沈黙にたゆたう。
柄にもなく神さまに祈る。
この、ちっぽけな幸せが一秒でも長く続きますように。魔法が解けたあかつきにはおれの設楽は消える宿命 にあっても、彼の心の片隅におれの痕跡を留めておいてください──。
捜索隊を派遣するぞ、と沢木がケンカ腰で電話をかけてくるまで設楽とともに、清 かな月の光を眺めてすごした。
設楽が吐く息と、おれのそれが空中で溶け合って白くたなびくと涙がまた、にじんで。設楽になら、みっともない表情 を見られても……いいや。
「凍え死ぬ前にコンビニでケーキを買って帰ろうか。おれさ、今日さ、誕生日なんだ」
「フロ・ニャポラ!」
「それ……いったい何語?」
「皆目見当がつきません。何者かが瞬間的にわたしに憑依して舌を操ったのでしょうか」
霊媒体質、と茶化したけれど腹の底がざわざわする。陽に透けると黄金色 に輝く髪の毛が雄弁に物語るとおり、設楽は生粋の日本人にはどう転んでも見えない。
折りに触れて母国語とおぼしい言葉が口を衝いて出るのも、郷愁に駆られてのことだと考えると辻褄が合う。
じゃあ、設楽はもつれ返った記憶の糸がほどけしだい、海の彼方に去ってゆく? かぐや姫、さながら……?
と、いち早く地上に降り立った設楽が羽ばたくように腕を広げ、左手を街灯にかざした。
「冬哉さんから賜った指環に誓います。万一、あなたと離ればなれになることがあっても、必ずや冬哉さんのもとに還ってくると」
そっけない相槌を打つにとどめて、インプリンティングだ──と、あらためて自分に言い聞かせる。記憶がいったんリセットされて〝自我〟を再構築していく過程にある設楽は、真っ先に接したおれを神聖視しているだけだ。
設楽に溺れるのは禁物で、それでも。
寒さしのぎを免罪符に、設楽におおっぴらに抱きつく。不倫男に煮え湯を飲まされたのは去年のちょうど今頃で、呪われた季節になり果てた冬にも便利な面がある。
のちにフロ・ニャポラをネットで検索してみた。ギリシア語で〝誕生日おめでとう〟を意味することを知って、ふた晩泣き明かした。
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