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第8章 オッドベット

    第8章 オッドベット  (はら)い清めると称して沢木がおれを近所のお稲荷さんに引きずっていったのは、桜前線が本州を北上中のある日のこと。  もっともおれはカップ酒片手に咲き初めし桜を()でるどころか、アカンサスの葉っぱが風にそよぐ異国でウゾ──ブドウの搾りかすを蒸留してこしらえる火酒らしい──をすすっている。  悠久の昔、栄華をきわめたギリシアにて。  日本を発って半日後の夕刻。ベッドルームも備わっている豪勢なクルーザーに賓客(ひんきゃく)として招かれ、デッキチェアに腰かけて茜雲が綾なす水平線を眺めることになるなんて、十日前には夢想だにしなかった。  しかも舵を取るのはあろうことか設楽・イアニス・鷹彦で、彼とふたりきりでエーゲ海巡りとくれば、紺碧の海も色あせてみえる。  だいたい、自分がなんの(なにがし)かを思い出したその足で帰郷してからこっちウンともスンとも言ってよこさなかったくせに、いきなり成田―アテネ間の航空券を送りつけてくるのは(余談だがファーストクラスを)、どういう了見だと声を大にして言いたい。  遠路はるばる出向いてきたのも、ひとえに設楽(イアニス以下は省略)を張り倒してやらないことには憤懣やるかたないって感じだったからだ。  と、操舵室のドアが開いた。設楽が甲板をこちらにやってくると握り拳に力がみなぎり、そのくせ、どぎまぎして落ち着かない。  真冬の日本で心を通わせたは、シャボン玉のように儚く消えた。  この数ヶ月、カジノのドア口にベッドの傍らに街角に、の幻影がちらついてちらついて。パンドラの箱を開けて以来、ヘコみっぱなしのおれを叱咤する目的で、沢木があえて偽物呼ばわりするのことは吹っ切って、曲がりなりにも巡り会えた生身の設楽に抱きついてゆけば、ふたりの間に横たわる溝は埋まるはず。  なのに神経がささくれ立ってしょうがない。慣れた手つきで煙草を咥え、たなびく紫煙に目を細める設楽は畢竟(ひっきょう)の生き写しにすぎないと思い知らされて。  あたかも、一卵性双生児の片割れのように。 「ずいぶんおとなしいが、船に酔ったのか」  顔を覗き込まれて、おれは眉根を寄せた。 「舵をほっぽって沈没したらどうするんだ」 「むろん、座礁する(おそれ)がないからこそ操縦を船の心臓部に搭載されているコンピュータに任せての小休止だ」    テーブルを挟んで隣り合うデッキチェアに腰を下ろすと、ウゾをグラスにそそぐ。

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