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第32話

「話の種に立ち寄ったカジノで勝ち気なディーラーに一目惚れするわ、やむにやまれぬ事情で帰国したのちも恋風が身にしみて不眠症を患うわ、年貢の納め時とは、このことだ」  苦々しげな口ぶりで独りごち、それでいて設楽は姫君に忠誠を誓う騎士さながらおれの足下にひざまずくと、比類がないほど真摯な眼差しを向けてくる。 「夢とうつつの境をさまよっていた間にきみを慕いぬいたのは、潜在意識のなせる技だ」  地獄に堕ちな、と親指を下に向けざま、おれは設楽から数歩離れて船室の外壁にもたれた。顔貌(かおかたち)で愛を囁くのは反則だ、と唇を嚙みしめる。  そのくせケンもホロロに設楽をあしらったほとぼりも冷めないうちに彼を見つめ返してしまうよう。もうひと押ししてほしい、と暗にねだっているも同然だ。  設楽は、おれみたいな天の邪鬼の扱い方に長けている。彼は胸ポケットをまさぐって一ユーロ硬貨を引っぱりだすと、くくと嗤う。 「ルーレットでわたしに負けた借りを返したくはないか? きみが勝てば帰港して、そこでお別れだ。だが、わたしが勝ったときは」  人差し指で、唇にちょんと触れてきた。 「ここはもとより、冬哉、きみの全身に接吻する。さあ、裏と表のどちらに運命を託す」 「事あるごとに、そのパターンですね」  馬鹿のひとつ覚え、と皮肉ったあとで欧州の地図と1€が刻印されている面を指し示す。それから、背筋を伸ばして設楽を見据える。 「おれが勝ったときはにあげた指環を返してもらう。でなきゃ、この話はご破算だ」  ひところ彼の指を飾った指環を『愛しのわんこ』を偲ぶよすがにするから──。  設楽が重々しげにうなずいて、交渉は成立した。黄金色(こがねいろ)にさんざめく腕が早速しなって、親指の爪に載せた硬貨を垂直に弾く。    一瞬、舷窓に達する高みで停止してみえた硬貨が美しい弧を描きながら舞い落ち、設楽の掌にすとんとおさまる。  夕陽に照り輝く面に刻まれている模様は、それがギリシアで鋳造されたことを物語るフクロウ──。  勝利の女神が設楽に微笑んだ直後、嚙み裂くような烈しさで唇が重なった。

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