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第108話

 声の主は上がり框を上がると、廊下を軋ませ旭葵の前にやって来た。  羽織った黒いコートから冬の香りがした。旭葵の目線と同じにしゃがんだ黒い瞳が旭葵を覗き込む。 「旭葵、大丈夫か?」 「一生……」 「母さんから連絡が来て、旭葵のお婆さんが運ばれてきて入院したって」  そうだった。お婆さんがいるのは一生のお母さんの病院だった。気が動転していて、頭の隅で分かってはいたが、お母さんに声をかけるなどというところまで考えが及ばなかった。  一生はそれ以上何も言わなかった。旭葵が伝えられたお婆さんの情報と同じくらいの情報は、すでにお母さんから聞かされているのだろう。  一生の沈黙がことの重さを物語っていた。  なんでもいい、その重みから逃れたかった。 「一生こんな所にいていいのかよ」  一生は応えなかった。 「イヴのデートはどうしたんだよ」 「もう終わった」  チラリとスマホを確認すると、まだ夜の7時だった。  アシカガの森からここまで少なくとも30分はかかる。6時半にイヴのデートを終わらせたなんてあり得ない。  一生は居間に入っていくと、部屋の明かりをつけ灯油ストーブにマッチで火を灯した。  よもぎが弾むようにして一生の後を追いかけていく。仄かな火薬の匂いと、ボッボッと青い炎が低い音をたてて立ち上る。 「旭葵、こっち来いよ、そんなところじゃ寒いだろ」  ずっと同じ体勢でいたせいか、立ち上がると膝が軋んだ。ついでに足も痺れて剣山の上を歩いてるみたいで変な声が出た。 「どうした?」 「足が痺れた」  ぎっくり腰になった人みたいな変な歩き方になる。今、喧嘩を仕掛けられたら指1本で倒されそうだ。一生は頬を緩ませる。 「ほら、掴まれよ」  一生は自分の肩を差し出した。その、一生の首に洒落たキャメル色のマフラーが巻かれていた。肌触りが良さそうな旭葵が初めて見る真新しいマフラーだった。  一生の肩に伸びかけた旭葵の手が素通りする。  どうにか自力でストーブの前にたどり着いた時、座っていた場所に置き去りにされた旭葵のスマホが鳴った。  2人は一瞬顔を見合わせる。  旭葵の怯えが伝わったのか、一生は自分が取りに行くからと手で合図を送ってきた。廊下に落ちているスマホを拾い上げると、一生はその画面をしばらく見つめた。 「誰から? 病院?」  恐る恐る尋ねる旭葵に、一生は無言でスマホを手渡す。  隼人  画面にそう表示されていた。旭葵は胸を撫で下ろした。 『旭葵! お婆さん大丈夫なのか!?』  思わず耳からスマホを遠ざけてしまうくらいの大声だった。  とりあえず、病院で言われたことをそのまま隼人にも説明する。 「悪い隼人、今日行けなくなっちゃって」 『いいんだよ、そんなのどうでも。それよりも、あー、なんでこんな日に限ってこっちに来ちゃってるんだよぉ』  田舎は終電が早い。今から東京を出ても途中までしか電車がなく、今日中に隼人がこの町に帰ってくるのは不可能だった。

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