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第112話
本当だったら今頃お婆さんは老人会ではしゃぎまくっているはずだった。今日、病院のベッドに横たわるお婆さんは別人に見えた。
「婆さん、元気になるよな、絶対絶対元気になるよな」
「大丈夫、旭葵、お婆さん元気になるよ」
「でも今日病院で何かあったら電話するって言われたんだ。ブラジルにいる親も何かあったらすぐに帰国するって言うんだ。何かあったらって、それって婆さんが死ぬってことだよな」
「旭葵……」
「俺困る。今婆さんに死なれたら困るんだよ。だって俺、この前婆さんに頼まれた商店街の抽選券を景品に交換しにまだ行ってないし、家の門のとこに突き出てる枝も切ってくれって言われててずっとそのままだし、腰だって痛いから揉んでくれって言われても真面目に揉んだことなんてないし、いつも5分くらいではい終わり! また続きは明日って、それで次の日続きを揉んでやったことなんてないし、それにこの前婆さんが楽しみに取っておいた老人会で貰ったヨックモック全部ひとりで食べちゃって、あれ東京の本店にしか売ってないやつで、今日本当は俺が東京に行くはずだったから買ってくるって約束してたんだ」
「旭葵」
ぐいっと身体を引き寄せられ、一生の胸の中に閉じ込められる。
「一生、婆さん死んだらどうしよう」
「大丈夫、お婆さんは死なない」
「婆さんがいなくなったら俺、この家にひとりになっちゃうよ」
「お婆さんはまだ死なないから旭葵」
「一生」
一生の胸の中でついに旭葵は決壊した。
今日、お婆さんが居間で倒れているのを見つけた時から、救急車の中で、病院の廊下で、帰りのバスの中で、旭葵はずっとひとりで耐えていた。
「旭葵、今日はエラかったな。救急車呼んで、お婆さん運んで、入院の手続きもして、ブラジルの両親にも連絡して。怖かっただろうに、ひとりで心細かったろうに。ずっと張り詰めてたんだな。でももう我慢しなくていいよ、俺がずっとそばにいてやるから」
旭葵の涙と鼻水で一生の服が汚れても、一生は旭葵を離さなかった。
2人の上を静かに聖夜が降ってくる。
遠くに聞こえる音が、深く沈んだ旭葵の意識を揺り動かす。心地よい温かさをかき分けながら、そのままゆっくりと水揚げされるように明るい方へと導かれる。
その間も音は鳴り続け、次第に音量を増す。
最後にトンと背中を押され、旭葵は目覚めた。
目の前に一生の寝顔があった。旭葵はまだ一生の胸の中にいた。
一生は自分のコートの中に旭葵をすっぽりと収め、しっかりと旭葵を抱きしめたまま健やかな寝息を立てている。
窓から冬の柔らかな朝日が差し込んでいた。
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