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第137話

 旭葵は隼人が教室に戻ってくるなり、その襟あしをつかむと廊下の隅に引っぱって行った。 「おい、さっきのはなんだよ! 俺、キスなんて承諾してないぞ」 「校長が承諾してくれた」 「ふざけんな!」 「ふざけてない、本気だよ」 「とにかく俺はキスなんてしないからな、これから校長に抗議してくる」 「拒否るとブラジルで高校1年生からやり直しになるよ」 「は? なんだよソレ」  隼人曰く、日本からブラジルの高校に転入するには日本の高校から書類がいろいろと必要になる。それがないと単位が移せず、高校を一からやり直さすことになる。旭葵のキス承諾が書類作成の条件だというのだ。 「おい、そんな脅しみたいなやつ学校が一生徒にやっちゃいけないことだろ。つか、全部隼人が校長に吹き込んだんだろ」 「旭葵のキスが俺が大会に参加する条件だからね。高校を一からやり直すのに比べたらキスくらいどうってことないじゃないか」 「そういう問題じゃない、俺の人としての尊厳はどこいった」 「だったら一生に頼みなよ。大会に出て優勝してくれって。優勝者はキスを拒むこともできる。そうじゃなくても旭葵は一生とだったらいいんじゃない? みんなの前では嫌かもだけど」  旭葵は隼人を殴ろうと振り上げた拳をそのまま握りつぶした。 「一生は、トライアスロンは止めたんだ。俺のためにそんなことしてくれないよ」  トライアスロンの話をするのも嫌がる一生が、激カワちゃんを選んだ一生が、旭葵のために再びトライアスロンの大会に出場し、それも全国大会2連覇の隼人相手に優勝するほど本気になってくれるとは思えなかった。  ずっとトライアスロンを続けていたならまだしも、ブランクもあるのだ。簡単なことじゃない。そんな大変なことを、一生が旭葵のためにしてくれるとは思えなかった。 「するさ」  隼人が旭葵の心を読んだように言った。 「断崖から飛び降りたやつだよ。旭葵のためにあいつはするさ」 「隼人は何にも分かってない」 「分かってないのは旭葵の方だよ。とにかく、そういうことだからよろしくな」  隼人は旭葵の肩を叩くと、教室に入っていった。教室から声援と拍手喝采が聞こえてきた。 「一生は……、してくれないよ」  旭葵は一人残された廊下の隅で、誰にともなくつぶやいた。  隼人の校内放送後、旭葵の姿を一目見ようと他のクラスや学年の生徒たちがひっきりなしに旭葵の教室にやってくるようになった。 「もうさ、いちいち誰が如月君か教えるの面倒臭いから、名前書いた紙を首からぶら下げて休み時間教室の前にずっと立っててよ」 「うるせえ、俺のせいじゃない。文句があるなら隼人に言えよ」  こんな旭葵とクラスメイトたちのやりとりが幾度となく交わされる。  今年の優勝賞品がキスだけになったことで、大会の参加者が減るかと思いきや、逆に面白がって例年より参加人数が増えそうな勢いだという。  旭葵の美貌がそれに大いに貢献しているのは間違いなく、旭葵を初めて見る生徒は皆一様にひどく驚き、大会への闘志を燃やした。  旭葵の評判が評判を呼んで、他校の生徒もわざわざ旭葵を見にやってくる始末で、大会に参加する外部の生徒も増えているらしかった。  もうここまできたら、キスはしませんではすまされない。旭葵は腹をくくるしかなかった。  別にキスぐらい減るもんじゃないし、一瞬だ、一瞬。でも隼人の奴、本気キスって言ってたな。本気キスってなんだ? まさかべろチュウか? 公衆の面前だぞ。つかそんなキスを隼人と。いや、万が一、隼人じゃなくて他の奴が優勝したらどうすんだよ。見ず知らずの初めて会った男とみんなの前でべろチュウすんのか、俺? 「それって最悪じゃね」  今更ながら事の重大さに気づき旭葵は怯んだが、もう後には引き返せない。 『だったら一生に頼みなよ』  隼人に言われた言葉が、旭葵の中でくるくると螺旋を描き出す。  そう言えば、隼人が放送で言っていたキングとは一生のことだろうが、勘違いがなんだとか、あれは一体なんのことだろう。  気にはなるが今はそれどころじゃない。  問題はキスだ、キス。

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