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第138話

 気づくと旭葵は一生の教室の前に来ていた。  別に一生に頼む訳じゃない。ちょっと打診してみるだけだ。なんとな〜く、それとな〜く。  それだけに直接一生の顔を見ながら話した方がいいように思えた。 「桐島君ならもう帰ったよ、部活かな。それより君って2組の如月旭葵君だよね」  ジロジロと旭葵を舐め回すような目を投げ打って旭葵は教室を離れた。  次に向かったのは水泳部の部室だった。そこで旭葵は意外な事を知らされた。  一生はここ数日、部に顔を出しておらず、さらに今朝、しばらく休部したいと部長に連絡が来たという。  ここでも水泳部の部員たちから好奇心丸出しの目で見られた旭葵は急いで退室した。  一生が水泳部を休部。一生は泳ぐのまで止めてしまおうとしているのか。なぜ?   けど、どのみちこれではとてもじゃないが、トライアスロンの大会に出てくれなどと頼めるような感じじゃない。  もう絶望的だ。腹をくくれ旭葵。知らない奴とのべろチュウがなんだ。死ぬ訳じゃない。いや、きっと隼人が優勝する。だって去年、一昨年の全国大会優勝者だ。相手は隼人だ。そう悲観的になるな。  そうやって自分を叱咤するも、重くのしかかってくる憂鬱は払っても払っても消えず、それは時間と共に水を含んだように重みを増していった。 「一生……、他の奴とキスするなんて嫌だよぉ」  一生のお母さんと近所のスーパーでまたばったり会ったのはそれから2週間ほどしてからだった。 「最近あの子、やたら家に帰ってくるのが遅くて、帰って来たかと思ったら部屋から1歩も出てこないから、覗いてみたら死んだように寝てるのよね。水泳部の練習って最近そんなにハードなの? 近々大きな大会でもあるのかしら、旭葵君、何か聞いてる?」  一生のお母さんは一生が水泳部を休部していることを知らなかった。 「一生も本気で水泳に打ち込み始めたってことじゃないですか。前は手を抜いて泳いでたみたいだったし」  打ち込むどころか休部しているのに、旭葵は一生のお母さんを心配させまいと嘘をついた。  一生は学校が終わると風のようにどこかにいなくなり、以前以上に旭葵は一生と会うことがなくなっていた。  一生の奴、いったい学校の外で何をしてるんだよ。  それから数日後、旭葵は放課後、学校の近くのファストフード店で一生と激カワちゃんが一緒にいるところを目撃した。 「なんだ一生の奴、学校が終わって部活もさぼって何してるのかと思ったら、彼女とデートかよ」  旭葵はそれまで自分が蜘蛛の糸のような見えない細いものにすがっていたことに気づいた。    そして今、天から降ろされたその細い蜘蛛の糸がプッツリと切れたことを悟った。落ちたところは、何色ともしれない、ただそれは綺麗とはとても言えない濁った色をした、怒りとも失望とも、諦めともつかない感情が渦巻いた沼だった。  旭葵は家に帰ると台所で夕食の支度をしているお婆さんに宣言した。 「婆さん、俺行く、行くよブラジルに。とりあえず校内トライアスロン大会までは日本にいなきゃだけど、それが終わったらすぐに行けるように準備するから、婆さんもそのつもりでな」  お婆さんは背中を丸めてネギを刻みながら、「そうかい」とだけ返事をよこした。  それから、日々は慌ただしく過ぎていった。旭葵はただ、ブラジルでの生活のことだけを考えて過ごした。  それ以外は何も考えないようにした。

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