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第144話

 微かに、でもそれは確かに、旭葵の耳に聞こえたような気がした。  一定のリズムを保った息遣い、地面を蹴る軽やかな音、迫ってくる熱い鼓動。  旭葵はゆっくりと振り向いた。  蜃気楼のような影が、道の向こうに見えた。  風を従えて、今、それは来る。 「1人! 独走だ!」  誰も寄せ付けない圧倒的な早さ。まるで自らがゴールへの道を切り開くかのような力強い走り。  その堂々たる王者は、いつでもまっすぐに旭葵に向かって走ってきた。まるで旭葵こそがゴールかのように。  心臓が破れるほど苦しいはずなのに、ほとばしる汗を風に散らせながら、その顔はいつも最後は笑っていた。  そして今、影ははっきりとした輪郭を持って旭葵の目に映る。  一生!  紛れもなく、それは、旭葵の一生だった。  割れんばかりの声援の中、一生はゴールの1人舞台を悠々と踏んだ。  全てがスローモーションのようにゆっくりと旭葵の瞳には映った。 「なぁ、あれ、阿久津一生じゃないか!?」 「え? 阿久津ってあのトライアスロンオリンピック代表の阿久津選手?」 「そうそう、その息子の阿久津一生。中学までジュニア大会で優勝を総なめしてたんだけど、ある年からぷっつり公式大会から姿を消したんだ。そうだよ、あれ、絶対阿久津一生だよ」  そう騒ぎ出したのは外部から来たトライアスロン関係者たちだった。  そこから先は単なる一高校のトライアスロン大会とは思えない大騒ぎになった。  3位以下を大きく突き放して2位でゴールしたのは隼人だった。  現高校トライアスロンの覇者と数年前までジュニアでその名前を知らない者はいなかった2人が同じ高校で、公式ではなく校内トライアスロン大会で競ったことにトライアスロン関係者たちは大興奮した。  表彰式のために作られたステージは2人へのインタビューの場と早変わりした。 「旭葵!」  人混みをかき分けて湊と大輝が旭葵の元にやって来た。 「うわっ、なんか今回もすげえな、それ花嫁衣装か?」  大輝が目を丸くする。 「すごい綺麗だよ旭葵。つか、さっきは電話途中でごめん、興奮して落としたらしばらく電源が入んなくなっちゃって」 「あの電話はなんだったんだよ。俺、てっきり一生が落車したかと勘違いしたじゃないかよ」 「ごめん、ごめん。あれはさ、大変だ! 一生がバイクで隼人に大差をつけてゴールしたって言おうとしたんだけどさ」  なんて紛らわしい言い方をするんだと思ったが、普段冷静な湊がそれほど興奮したのだろう、仕方がない。  そしてこの時旭葵は思い出した。子どもの頃交わした一生との会話を。 『一生は3種目の中でどれが1番得意なんだ?』  一生は迷わず答えた。 『ダントツ、バイク! バイクは絶対に誰にも負けない。俺のバイクは風よりも早い』  

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