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さて今年も残すところあと364日 2

「坊ちゃん、清武です」  清武は薄暗く底冷えのする廊下から、目の前の閉められた襖に向かって声をかけた。 「お客人はおられますか?風呂が沸いたので、先に」  中からは話し声や物音一つせず、ほんのり漏れ伝わる中の暖気以外に大人の男二人がいるような気配は感じられない。 ーー出かけたのか? 「清さん?」  中から聞こえたのは耳慣れた恒星の声ではなく、もっと柔らかで落ち着いた低音ーー因縁の相手のそれだ。 「遠山社長。坊ちゃんは?そこにいないんですかい?」  清武の頭にふと、玄英の顔をしたメスの蟷螂(かまきり)がオスの坊ちゃんを喰らっている映像が浮かんだーーバカな。  玄英がバカップルを装いライバル心全開で何かと煽ってくるのと、例のトラウマのお陰で清武自身、常識の境目がかなりアバウトになりかけている。 「そんなに気になるなら入ってきなよ」    玄英の屈託ない明るい声が、挑発するように響いた。 「いえ。風呂が湧いて知らせに来ただけなんで。お客人からどうぞ」  清武は踵を返して階段を下ろうとした。 「清さん、逃げるの?」  玄英のくすくす笑いが追いかけてきて、清武の堪忍袋の緒が切れたーーもしも不埒な真似に及んでいたら構うものか。ぶん殴って永久に出入り禁止にしてやるーードスドスと足音を立てて乱暴に襖を全開にした。 「しー……」  ベッドの上で玄英が唇に指を当てたーー二人とも着衣のままであることに腹ただしいくらいにホッとした。やはり感覚が色々おかしい。  二人は狭いベッドの上で横向きに並んで寝そべり、恒星は無防備な寝顔をこちらに向けて熟睡している。上背のある玄英が枕元で頬杖をついたまま、ぴったりとくるみこむように寄り添っていたーーこれはこれでかなり勘に触る。 「大掃除して徹夜で海行って、初詣と凧揚げして、こっちでまた初詣に行って……疲れちゃったんだよね。ずっと僕のために頑張ってくれてたから」  玄英の長い指が赤味の差した丸い頬を愛おしそうに撫でた。 「うちのダイがお邪魔しました」  清武はぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。  玄英が手伝って片付けたという部屋は、清武が長年見慣れていたそれとは様変わりしてスッキリとしていた。貼りっぱなしのポスターやヤンキーにかぶれていた時代のいかにもなガラクタが全て片付けられてしまうと殺風景なくらいだ。  恐らく褒めてしかるべきことなのだろうがーー不似合いながらも当たり前のようにそこにあり続けていた十代の恒星の残り香のようなものが全て、跡形も無く消え去ってしまったーーそのことにうろたえ、嘆きすら感じたのは清武自身にも予想外の事だった。 「んー、本当だよ。二人っきりだったら帰りにラブホでイチャイチャできたのに」 「……!」 「あはっ、じょーだん♪そんな怖い顔してると、坊ちゃんに嫌われるよ?」  玄英は顔だけこちらを向けて揶揄(からか)うように笑った。関係を知られて開き直るならまだしも、清武の長年秘めていた気持ちを(あば)いた上で牽制がてらこうして抉ってくるのだから性質(たち)が悪い。 「『坊ちゃん』ってあんたが呼ばんでください」  拳を握りしめたまま、静かな怒りに震える清武。 「うんそうだね。恒星、その呼び名嫌がるもんね」 「……」  清武が人一人くらい余裕で射殺せそうな眼力で睨みつけてもこの優男は泰然とした笑みを返すだけなのだ。愛されている者の余裕か根が図太いのかーーおそらく両方だろう。 「ダイって真面目でいい子だね?旧正月には恒星と一緒に、実家に遊びに行くことにしたんだ」 「はっ?ベトナムにですかい?」「もちろん」  油断も隙もない、人たらしの雌猫……と、思わず言葉に出しかけて飲み込んだ。  人の懐に入り込む力とフットワークの軽さは美点なのだろう。青葉造園よりも規模の大きな会社で多民族の社員個々の能力を発揮させつつ強力に統率しているだけのことはある。  ここのみんなにしてもそうだ。  このまま腰を落ち着けるかどうかは未知数だが、恒星は青葉造園に戻ってきた。五年間他人の釜の飯を食ってずいぶん頼もしくなった。それもこれも玄英のお陰だと、親方以下思い込んでいるような節がある。  玄英の会社のモニターを引き受けているから仕事の上でも切っても切れないし、公私に渡りマメで礼儀正しく人当たりのよい玄英は、職人にも事務員にも人気者だ。あくまで恒星の親友兼仕事相手としての高評価ではあるのだが、着実に外堀を埋めにかかられている気がしなくもない。  どれもこれもが清武には気に入らない。

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