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目が覚めると、ミハルの視界の先にあるはずの炎は消えていた。火の灯らない暖炉をみて、ミハルは驚き体を起こす。全て夢だったのではと思ったからだ。しかし、起き上がる前に体の上に乗った腕の重みがミハルの動きを制した。
大きなカウチも、ライニールが寝そべると小さく見える。その胸元に潜り込んでミハルは眠っていたらしい。一枚の毛布だけだというのに、冬を迎えたこの頃では一番温かい夜だった。
また寝息を立てるライニールの腕から抜け出ると、一気に冷たい空気がミハルを包んだ。カウチに背に置きっぱなしのライニールの大きなコートをふざけ半分で羽織り、腕のでない袖口に鼻先を埋めて息を吸い込んだ。
壁にかけておいたミハルのコートは暖炉のおかげで一晩のうちに乾いたらしい。触れても水分を含んでいなかった。
窓辺に歩み寄る。とても明るい、雪の積もる朝だった。
「クッソ……さみぃ……」
その声にミハルは振り返る。腕の中の温もりをなくしカウチの上で身じろぎをしたライニールがむくりと体を起こした。
「あ?」
周囲を見回すライニールの後ろ姿が、自分を探しているのだとミハルは気がついた。小さく口元に笑顔を作り、「ライニール様」とその名を呼ぶ。
ライニールは振り返った。自分のコートを着るミハルの姿を見つけるが、何も言わずにそのまま視線を窓の外に滑らせた。
「積もったか」
「はい、けっこう積もってます」
「チッ、クソ、さみぃ」
「スープ飲みます? グラタンもありますよ。一昨日の残りですけど」
「食えんのかそれ」
「冬場ですし、まあ、大丈夫ですよ」
「ああ」
ライニールは立ち上がり、暖炉の前に屈んで蓋を開けた。ミハルはその後ろに近づき、膝を折ってしゃがみ込んでライニールの手元をのぞく。灰だけになったそこにライニールは薪を組んでいった。
「大きいのを先に入れるんですねえ? 他にコツがあるんです?」
「あ? ねえよそんなもん、適当だ」
隙間に破って丸めた紙を入れ込むと、ライニールはマッチを擦って投げ入れる。立ち上った炎が組んだ薪を包んだのをみて蓋を閉めた。
「あ?」
「え?」
「グラタンはどうした」
「ああ、はいはい、ただいま」
ミハルは冷え込む調理場で肩をすくめて足踏みしながらスープを温め、グラタンを焼いた。
暖炉の前に折り畳んだクロスを敷く。ライニールは絨毯の上にあぐらをかいて座り込んだまま、調理場と暖炉の前を行き来するミハルを黙って見ていた。
「今日はここでいただきましょうかね」
クロスの上に料理と食器を並べた。コンソメのスープからは湯気が立ちのぼり、グラタンはチーズとパン粉がこんがり色づき、まだジクジクと音を鳴らしている。少し硬めのパンはミハルが焼いたものではなく、ヒリスの差し入れの中にあったものだ。ミハルが小さなパン切り包丁を持ち出すと、ライニールはそれを手に取りパンを切りわけ、そのまま暖炉の上に並べた。
「これで焼けるんです?」
「わかんねえ、適当だ」
ライニールはそう言ったが、少し経つと暖炉の熱で切り分けたパンは焦げ目をつけた。
暖炉の前に揃って座り込み、クロスの上に広げた食事に手を伸ばす。
グラタン皿に残ったソースをパンで拭って口に放り込んで、またライニールは美味いも不味いも言わないまま全ての料理を平らげた。
この城はライニールとミハルの二人きりでいつも静かだ。雪の降った今日はことさらそう感じる。木々の枝が擦れる音も、小鳥の囀りさえも、すべて深雪の中に吸い込まれているかのようだ。
上着を着込み手袋を着けてマフラーを巻いた。城の玄関の扉を開きミハルが新雪に足を乗せると、きゅっと擦れるような音が鳴り、足を上げると靴跡が綺麗に残っている。ミハルは転ばないように注意深く石階段を降りた。
「チッ、けっこう積もってんな」
ライニールの声がする。振り返ると彼は大きなスコップで容赦なくミハルが付けた足跡を掬って階段の脇に放り投げていく。引きこもりで外に出かけず誰も来ないと言うのに雪をかく必要があるのかと思ったが、それを問うとライニールは城の中に戻ってしまうような気がして、ミハルは何も言わないまま石階段の下で雪を丸めた。それを道の上で転がしていく。新雪が雪玉に潰されて沈み、その後でまたミハルの足跡を付けた。
「遊んでんじゃねえぞ、クソ兎」
「違いますよ、これも雪かきのうちです」
「チッ、クソが」
転がした雪が膝の高さまで大きくなった。ミハルは顔を上げた。ここに来た時、城の前には金色の原野が広がっていた。今はただただ真っ白く、静かな雪が敷き詰められている。
「不思議ですね、ライニール様」
「あ?」
「俺は記憶がありませんけど、なんでか雪遊びのやり方は知ってます」
そう言ってミハルは雪玉を白い原野に転がした。綺麗な雪を踏み締めるのは心地がいい。
「やっぱ遊んでんじゃねえか」
と背後でライニールが言った。
ミハルは夢中で雪を転がした。一つを股下あたりまでの大きさまで作ったところでもう一つ別の雪玉を転がす。それが程よく大きくなった所で息を吐いた。見上げると、ライニールはまだ城の前の道の雪をかいている。植え込みの中にはかき分けられた雪の山ができていた。
「ライニール様」
「あ?」
ミハルが呼びかけると、ライニールが手を止めて顔を上げた。ミハルはその視線の先で小さい方の雪玉を持ち上げ大きい方にうんしょと乗せる。ライニールを呼んだことにあまり意味はなく、ただ単に見せたかっただけだった。
「チッ」
とライニールはいつものように舌打ちをすると、道の脇の雪山に持っていたスコップを突き刺し、ザクザクと雪を踏み締めミハルの元に歩み寄った。巻いていたマフラーを外し、それを雪玉の継ぎ目に巻きつけている。顔はないが、それで急にただの雪玉が雪だるまになった。
「鼻はニンジンにするとして、目はどおですかね、じゃがいもでも押し込んどきます? ほっぺの赤いのは生肉でも貼り付けておきますか。あぁ、なんだかカレーが食べたくなってきました。お夕飯はそれでいいです?」
「好きにしろ」
ライニールが鼻から息を漏らした。珍しく笑ったようだ。ミハルはライニールのマフラーを巻いた雪だるまを撫でて、少し歪だったその形を整えた。
すると不意に頬に冷たいものが触れる。思わず肩を窄め息を飲んだ。ライニールが新雪の塊をミハルの頬に押し当てたようだ。しかし、それはライニールのイタズラというわけではなく、腫れたミハルの頬を気にしているような様子だった。
「お前は余計なことはペラペラ喋るくせに、肝心なことは言わねえな」
「ライニール様、ちべたい」
ミハルが言うと、ライニールはその手を離した。
「ライニール様だって……」
言いかけて、ミハルは言葉を止める。ライニールだって何も教えてくれない。追蹤玉を集めていること、亡くした恋人のこと、東の地から戻るのが遅かった理由もそうだ。そしてミハルが犯した罪のことと、何故それを強く咎めずに自分をそばに置いているのかということ。
しかし、それを自分が言及するのはおかしな話だと、ミハルは思い直した。
「あ?」
閉口したミハルにライニールが眉を上げた。
「ライニール様、俺が前に吐き出した青い追蹤玉ってまだ持ってます?」
ミハルは聞いた。しかし、答えは知っている。あの引き出しの中のオレンジの追蹤玉に混ざっていた青い追蹤玉はおそらくミハルのものだ。
思った通り、ライニールは「ああ」と短く答え頷いた。
「それがどうした」
ライニールが問う。
「俺が吐くのって怖かった記憶でしょう?」
「ああ」
「今は、どう思うのかなって」
「あ?」
「ほら、最初ライニール様に食われると思ってすごく怖かったけど、今はそうじゃないんで」
「ああ」
ライニールは何か言葉を探すように、雪だるまを見つめた。ミハルはその横顔を見上げる。鼻と頬が寒さで赤くなっている。冷たい空気で引き締まったその皮膚に触れたい衝動を、ミハルは息を吐いて押し留めた。
「一度吐いたものは、もう戻らねえ」
白い息と共に、ライニールが言った。
「飲み込んでもダメなんです?」
「ああ、一度吐いたら、もうそれは他人の記憶と同じだ。飲み込んでも、同調はするが自分のものにはならねえ」
「そうですか」
「見てえのか」
「はい?」
「何があったのか、見てえのか」
「飲み込みたいかってことです?」
「ちげえ」
「はて」
「飲まなくても見られる。魔具がある」
「ああ、そうなんですね」
おそらくライニールはその魔具で、オレンジの追蹤玉を覗いて、その中から恋人の記憶を探し出そうとしているのだろう。たしかにあの量の追蹤玉を全て飲み込み、あやふやな追体験で目的の記憶を探し当てるのはあまり効率が良くなさそうだ。それに飲み込んで仕舞えばおそらくそれっきり。恋人の思い出に浸ることが目的だとすれば、手元に残しておきたいはずだ。
「いいです、見なくて」
「まあ、大した事は起こってねえ」
「そうですか」
ミハルは足元に手を伸ばし、また雪を拾い上げ手元で丸く押し固めた。
「もったいないですね、やっぱり」
「あ?」
「吐かなきゃ良かった」
固めた雪玉をライニールに手渡す。ミハルが「もっと大きくしてください」と言うと、ライニールは言われるがまま足元の雪を集めてその大きな手で雪を丸めた。
「怖かったけど、今となっては笑い話ってことになってたかも」
「あ?」
「青かったのが、オレンジになってたかも」
「ああ」
ミハルはもう一つ小さな雪玉を作る。それをライニールの手の上の雪玉に重ねて、そこに出来た小さな雪だるまをライニールの手から受け取るとそっと地面に置いた。
マフラーを巻いた雪だるまの隣に、小さな雪だるまが並んでいる。
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