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8 照路:冬支度の日

「ただいま」  おれの声は、ほの暗い廊下に消えていく。 海戸は仕事でいない。  ソファーにカバンを投げ、浴室に入った。ぎちつく体を、シャワーでほぐしていく。ジムに行ったのだ。シャンプーが少ない。脱衣所に戻って、外気につつかれながら、詰め替えを見つけた。寒い、寒い、と口にしながら、容器にたした。髪を洗う。ひとりのせいか、浴室のドアや洗面台の扉の開閉音が、異様にうるさかった。  ソファーに寝ころがった。窓は閉めきっている。空気の音が聞こえるほど静かだ。なんだか白い天井が膨張していく。めまいがして、目を閉じた。海戸の声を思いだしてみる。しょうこりもなく、エッチな声が浮かんだ。いまはダメだ。ろうそくの火のように、この空間をうめる、そんな声が聞きたいのだ。  決意した。  冬支度、はじめよう。      ⁂ (帰ったら喜ぶだろうな~)  圧縮袋からコタツ布団を出した。踊るようにベランダに干して、ついでにフランネルの毛布も干した。ふと思いだす。この毛布のどこかに、ごわごわした部分があることを。去年、海戸の精液がかかったのだ。海戸は買い替えると言い張ったけど、おれがとめた。寒くなって、またこの毛布を出す日が来たら、からかおうと決めていたのだ。  つんとした風がベランダをめぐって、眼下の、色の明るい街路樹を震わせながら、青空へ広がっていった。四角い車が街路樹に隠れた。  ソファーを押して、コタツ用のスペースを確保した。  昼の二時半。海戸が帰るのは五時半ごろだから、まだ時間はある。  和室の掃除機を玄関に運んだ。(コンセントは……)とさがして、かけていく。場所が変わるたびそのくり返しで、腰がこわばっていった。  和室までおえた。掃除機を投げ、大の字になった。腰が心地よく伸びる。カーテンに合わせて、天井の光が移ろっている。冬鳥が鳴いている。風がじっと肌にしみた。鳥肌が立って、その内側の意識が薄まっていく。まぶたが重い。天井の光がまつ毛のあいだに満ちていく。その光が陽ざしになって、どこかの草木に降りかかる。青空を、白球が飛んでいく。グローブをしたおれが見上げている。()らないと。そう思う間に、どこまでも飛んでいく。追いかけて、転んだ。全身の、陽ざしのざらめが粉々になった。その一粒一粒を、だれかが拾ってくれる。  ――夢を見ていた。   腹ばいになって、バッグを手に取った。中には、街なかでもらったティッシュ、鈴のついたキーホルダー、壊れたイヤホン、暗号と化したメモ、修理業者のチラシがある。そしてそこに、海戸の高校時代の写真が一枚、紛れこんでいる。体操服を着て、大きな船の前に並んでいる。いまより髪が長くて、いまと同じく不機嫌そうで、いまはないにきびを散らしている。 「高校のころ会ってたら、付き合ってたかな」  ここに引っ越した日だ。  段ボールを開けていた手をとめて、海戸は考え、言った。 「おれ、友達いなかったから、照路とも話さなかったかも」 「学校で何してたの?」  海戸は照れくさそうに笑った。「海、見てた」  残りの部屋も掃除機をかけた。そのあと収納袋を引きずって、リビングで中身を組み立てた。同棲する前、海戸が駅ナカの抽選会で当てた、クリスマスツリーだ。こまごました飾りは足元に置いておく。面倒くさがりのおれたちは、思いついたときに、思いついたぶんだけ、飾っていくのだ。   四時半。    (やべ)  スーパーへ急いだ。ジムから帰ったときと同じ近道を選んだ。強い風で枝の影がたわみ、踏んだ落ち葉が風のように鳴る。木々の上には、あせた空がある。枕木の階段をのぼっていく。夕陽をまとった枯れ枝が、せり上がっていった。  晩ごはんは、大学のころ覚えた味噌煮込みうどんと、ビールだ。海戸はお酒が苦手だ。飲むとおしゃべりになって、次の日は頭痛に襲われる。海戸の分は何か炭酸にしよう。それでも飲みたいなら、半分に分ければいい。  落ち葉に染まった遊歩道を、走っていく。  ⁂  家に帰った。飲み物を冷蔵庫にしまって、手を洗う。 「冷たっ」  凍える手をタオルで拭いた。  スマホで切り方を調べ、食材を切っていく。画面が指で濡れて、思うようにスクロールできない。シンクが皮や石づきで汚れていく。形が不ぞろいだし、むやみやたらに切ったものが飛んでいく。指が鶏肉でべたついた。切りおえて、計量スプーンをさがした。砂糖、みりんを計って、ボウルに入れた。それから調味料ラック、棚、冷蔵庫を確かめた。 (……ない)  肝心の味噌がない。今朝海戸が使っていたはずだ。使いきったのだろうか。  時計を見た。五時二〇分。スマホに指を走らせ、かわりのレシピをさがそうとした。けれど、――初めて食ったけど、うまいな。いつかの海戸の言葉に突き動かされ、財布をポッケに押しこんで走った。テーブルにぶつかった。醤油が倒れて、鍵の音がした瞬間キャッチして、――ただいま。と声のしたときには、足がすべって、顎を床に打ちつけていた。 「てるじー。きょうさ、びっくりするモン見……」   おれはうつ伏せの顔を上げ、言った。 「……おかえり」 ⁂ 「まさか冷凍してるとはな~」 「味噌は冷凍すると味がおちにくいんだ」海戸が得意げに言った。 「さすがおれの嫁さんだな~」 「酒、くさい」  頬ずりすると、海戸がそっぽを向いた。仕方なく肩に顎を置いて、海戸の首のにおいを嗅いだ。自分の酒のにおいでよくわからない。海戸はコタツ布団に身をのりだしている。おれは毛布をかぶって、海戸の背中に抱きついている。晩ごはんを食べたあと、干したままなのを思いだして、ベランダに出たのだ。 「ハリネズミ、どこで寝てるかな」 「信じてるのか?」 「ないと思った味噌があったからね。ハリネズミだっているかも」  おれの鼻を、前を向いた海戸の頬がこすった。頬の動きで、笑っているのだとわかる。  海戸は言った。「この町は自然が多いから、なんとかなるかな」  街路樹のイルミネーションが金色に輝いている。  手すりに出していた手を下げて、海戸の腹にまわした。毛布がおれの肩からすべり落ちた。袖のめくれた腕から、腹のぬくもりが伝わってくる。 「照路は冬すき?」 「海戸があったかいから好き」   「おれの体、冷たいだろ?」 「冷たいけど、一緒ならあたたかい」 「ふ、ふくに手入れるな!」 「し」海戸みたいに、おれは注意してみせた。「ここ、ベランダだよ」  耳元でささやくと、海戸は鼻から息を抜いた。そして、黙りこむ。  いつもみたいに軽口を言い合いたくて、毛布のごわごわした部分のことを言おうとした。けど、やめた。酒でゆるんだ体を、冷たい空気が押し潰していく。心臓のあたりが寒い。海戸の腹をぎゅっと抱きしめて、背中にひたいを置いた。目を閉じる。 「怒った?」  真っ暗な世界で、海戸の声を聞いた。  ――きょうはありがとな。  おわり

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