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十九哩(来る者は来る、去る者は去る)

 月曜日の昼、二年F組の教室は閑散としていた。男子にドッジボールブームが到来したので。みんな若いな。  ブレザーとヴェストを着込んでも、ふと身震いしそうになる。晩秋の薄日、窓辺の席でぼくはペーパーバックをめくった。矢嶋健の忘れもんの洋書。物語の舞台がマンハッタンってこと意外は、ちんぷんかんぷん。それでも、わかる単語やフレーズがいくつか。rip-off(ぼったくる)とか、XYZ(社会の窓)とか、bullshit(でたらめ)とかね。矢嶋のレクチャーのおかげ。  窓際最後尾の定位置に、あの問題児は不在。欠席だ。風邪でもひいたんだろうか。アホのくせに。  活字を追うのに疲れて、ぼくは顔をあげた。ロッカー寄りの戸口から近づく影。二年A組の竹宮朋代だ。かぐや姫とあだ名される学校一の美少女。やつの長い髪が天使のように光を帯びている。竹宮は開口一番いう。 「矢嶋くんは?」 「休み」 「どうして」 「さあ」 「なんで知らないの」  むかついた。ぼくはいらだちを押し殺す。 「おれじゃなくて、先生にきけば。無断欠席ってことはないと思うけど」  ぼくは洋書を熱心に読むふり。竹宮はあきらめるかと思いきや、矢嶋の席に腰をおろした。竹宮のアーモンドアイは日向のパイレックスガラスみたいに光る。やたら存在感のある女子を黙殺できるほど、ぼくは図太くなかった。本をたたんだ。竹宮は勝ち誇った笑み。 「矢嶋くんの番号かメルアド知らない?」 「知らない」 「どうしてよ。友達なんじゃないの」  矢嶋はケータイを持っているが、ぼくは持ってない。連絡なんて必要なかった。学校で嫌でも顔を合わせるし、放課後は矢嶋邸に強制連行されるのだから。 「本人にきけよ」 「だって、教えてくれないんだもん」 「じゃ、諦めな」  竹宮はムッとしたようだった。そのかたちのいい唇を見つめてぼくはいう。 「あいつを口説くのは勝手ですけど、おれを利用しようとしないでくれる。なんの得にもならないのに利用されてやるほど、おれはお人よしじゃないし、おまえは……」  いいさして、ぼくはやめた。竹宮がぐいっと迫る。きれいなお顔。 「何よ」 「いうと怒るようなこと」 「いいなさいよ」 「いわない」 「いいなよ」 「やだ」  ぼくのむこうずねに、竹宮の上履きのトゥーキック。ぼくは椅子のうえで飛び跳ねた。 「痛ったぁ! おまえ、性格ドブスなうえに凶暴なのかよ。サイアクだな」 「いえないほど失礼なこと思ったってことでしょ。オタウラの分際でむかつく」 「タウラいうな。矢嶋の秘密おしえてやんねえぞ」 「どんなっ」  竹宮はかわいらしく両手を組んだ。現金なやつ。ぼくはため息をつく。 「そのまえに、たしかめたいんだけど」 「何」  ぼくはふりかえった。河合省磨はドッジボール大会も行かないで、教室なかばの席でふんぞりかえってガンを飛ばしてる。ぼくらがびびると思ってるらしかった。竹宮の目を覗きこんで、ぼくは声をひそめる。 「河合への当てつけで、矢嶋にちょっかいだしてるんじゃないよな?」  竹宮は真顔になった。ぼくは目に力を込めた。竹宮は静かにいう。 「あんなくだらないやつの気なんか惹きたいわけないじゃん。あいつ、じろじろ見てきて、ほんっとウザいしキモいんだけど」  竹宮は拒絶的に腕を交差させた。ふてくされた顔で横を向く。噓をついてるふうには見えなかった。 「じゃ、矢嶋と純粋にしゃべりたいだけ? どうして」 「だって」 「だって?」 「かっこいいんだもん」  夢見る乙女の目。ぼくは脱力し、苦笑。 「なら、すきにすれば。おれは知らない」 「ちょっと、矢嶋くんの秘密は?」  困った。矢嶋の秘密だなんて、口からでまかせだった。いくらか知ってはいるけれど、具体的にコレってものを考えていたわけじゃない。しばし悩んだのち、ぼくはにやりとして両手でメガホンをつくる。 「あいつはな」 「うん」 「マザコンだ」 「えぇっ⁉︎」      ♂  錆朱地の御所解雲取の友禅、鳳凰に花菱文の袋帯のヘレンさんは、革の表紙をまくった。亜麻色のロングソファーで、ぼくは隣から覗きこむ。セピアがかったカラー写真。サマードレスの十歳くらいのきれいな女の子がアップライトピアノにむかってる。その面影が今の横顔にある。ヘレンさんはページを()る。五歳くらいの女の子が箱ブランコをやさしそうな白人女性に揺すってもらってる。ヘレンさんの母親だろうか。ページを繰る。白い布につつまれた赤ん坊は、そのころからもう目鼻立ちがものすごく整っていた。 「三十七年まえの今日よ。ケネディがパレイド中に撃たれたの。(マム)はロッキングチェァでその中継で見ていて、その瞬間に驚いて破水してしまったのね。予定日は二週間も先だったのに、(ダッド)がダッサンで病院に着くまでに、わたしの頭がでてたそうよ。ダッドはあんまりあわてていて病院を通りすぎたんだって、マムはいつも笑って話してくれた」 「よく撮れてますね。お父さんですか?」 「そう。デイリニュゥズでキャメラマンをやってたの。よくニコンを磨いてたのをおぼえてるわ。いつでも撮る側で、残念ながら彼の写った写真はあまり残ってない」  J.F.ケネディの暗殺が一九六三年。矢嶋は祖父が一九七二年に死んだといった。それなら、ヘレンさんは八か九歳で父親を亡くしたのだろうか。だから、母親のないぼくに、この女の人は親切にしてくれるのか。でも、この人は知らない。ぼくの母は存命だ。いまさらに気がとがめた。こんな深いつきあいになるなんて思ってなかったんだ。ヘレンさんはやさしい目。 「退屈かしら?」 「とんでもないっ。ぼくは自分のお産のときの話とかきいたことないから、おもしろいです。そういうの、きいとけばよかったなって思ってて」  ヘレンさんの目が悲しげになる。ほんとうのことをいったのに、ぼくは噓のうわ塗りをした気がした。ヘレンさんは別のアルバムに手を伸ばした。 「そうだわ、あの子の写真もあるのよ。わたしが撮ったの。見たら、きっとビックリするわ。あの子、昔は天使(エンジェル)みたいだった……」  横から威喝い手が伸びて、そのアルバムを奪った。矢嶋は顔を赤くしてまくしたてる。 「No!! Don't emberress me!」 「Takeshi, you bad boy. Don't bother me.」  ヘレンさんは席を立って、アルバムをとりかえそうとする。矢嶋は身長と腕のリーチの利で、それを許さなかった。Kuchi-kuchi-kooってヘレンさんは息子の脇腹を(くすぐ)った。矢嶋はリスニング不能な奇声をあげた。腕を縮こめてしまう。アルバムに手を伸ばすヘレンさん。矢嶋は急いでバンザイ。その拍子に、ヘレンさんが足をもつれさせた。矢嶋はアルバムを投げて、母親を抱きとめた。矢嶋の腕のなかで、ヘレンさんは笑い声をあげた。矢嶋もつられて笑った。  ぼくは矢筈模様(ヘリンボーン)の床から、さっとアルバムを拾った。でたらめにひらく。矢嶋が庭でサー公とじゃれてる写真。 「あら。それ、最近のだわ」  ヘレンさんが笑いすぎた涙をふいた。アルバムの山から矢嶋は一冊を確保する。 「こっちは絶対ダメ」  矢嶋はそのアルバムを抱きしめ、リビングルームをでてった。奥のキッチンから武士さんが顔をだす。 「なあ、フォンデュ(ポット)が見つからないんだ。どこに仕舞ったの?」 「キャビネットにあるはずよ。一番下のドア」 「ないよ」 「ナイ、ナイ、っていつもあなたはいうのよね。ごめんなさい、ちょっと行ってくるわね」  終いのほうをぼくにいって、ヘレンさんは席をはずした。ぼくはソファーでページの写真を眺めてた。サー公に頬を舐められてる、今よりも少しだけ幼い矢嶋。ガキっぽい笑顔。      ♂ 幸いの鳥コウノトリかあさんがぼくをだくときどんなでしたか      ♂  たっぷりのチーズが電気鍋に煮えていた。矢嶋は細長いフォンデュフォークで具材に熱あつのチーズを絡め一口で頬ばった。矢嶋と武士さんの用意した具材は、定番のフランスパン・ブロッコリー・ヤングコーン・南瓜・人参・ジャガ芋・ウインナー・鶏の唐揚。矢嶋は肉ばかり食べた。ぼくは遠慮して野菜を選んだ。ご両親は白ワインを飲んでた。チーズを伸ばすのに使った残りだ。武士さんは弱いみたいで顔を真っ赤にしてた。ヘレンさんは顔色を変えず、しかしながらわずかに陽気だった。オリヴィア・ニュートン=ジョンの歌をハミングしていたかと思うと、Takeshi, eat your veggies!ってたしなめる。矢嶋はウインナーを食べた。  具材をあらかた食べつくしたころ、武士さんがぼくと矢嶋に目配せした。男三人はさりげなく席をはずして、それぞれヘレンさんへのプレゼントの隠し場所へ向かった。  ぼくの隠し場所はキッチン。年季のはいった深鍋を家から持参していた。ぼくは鍋に火をいれて、食器棚から適当な器を拝借した。  匂いにつられたのか、図体のでかい息子がふらりとやってきた。矢嶋はうちの鍋をものめずらしげに眺めて、断りもなく蓋をはずした。不思議そうな顔。 「何これ」 「筑前煮だよ。土井勝って料理人のレシピだから、結構うまいはず」 「チクゼンニ?」 「筑前って、いまの福岡のこと。もとはそっちの郷土料理だよ。きっと、おまえんちはステーキばっかり食ってるから、知らないんだろうけどさ」  矢嶋は不機嫌そうに蓋を戻した。蓋の蒸気口が間抜けな口笛のように鳴った。 「ステイクなんか食ってない。ヘレンはベジタボゥばっかり食べさせたがるんだ」  プレゼントはぼくを最初にしてほしい、と武士さんと矢嶋に頼んでいた。二人のよりは絶対に見劣りするから。矢嶋に手伝わせて、小鉢によそった筑前煮を四人前ダイニングテーブルへ。Very very tastyってヘレンさんはよろこんでくれた。おいしい、懐かしい味だ、と武士さんもいった。ぼくは得意だった。  矢嶋はエイリアンのなますでも見るような顔つきをしていたが、意を決したのか椎茸をフォンデュフォークで突き刺した。おそるおそる齧る。 「Wow, it's so good!」  矢嶋はばくばく食いだした。野菜を食べる息子に、ヘレンさんは目を瞠った。 「キタウラくん、これのレスィピィ教えてちょうだい」  次は武士さんだった。(くれない)の薔薇のブーケを武士さんは差しだす。 「ちゃんと三十七本つつんでもらったよ」  いたずらっぽい目のヘレンさん。「どうするの、わたしが九十九(ナインティナイン)のおばあちゃんになったら」 「そのときまでには、庭じゅうに薔薇を養っておくさ」  ご両親は身を寄せあい、しっとりとキスした。ぼくは目のやり場に困った。矢嶋はしらけた顔で武士さんのぶんの筑前煮を平らげた。 「毎年やるんだもん、これ」  最後は矢嶋だった。あの二十二粒の真珠がどうなったのか、ぼくはきいてなかった。ゴールドのリボンを十字にかけた鉛白色の箱を、矢嶋は両手で差しだした。 「It's special one.」  ヘレンさんはにこやかに、リボンを膝のうえで解いた。箱の内はスポンジ張り、そこに意外と小さな帯留が収まってた。黄みの薄いゴールドの地金。花奢な鳥の流麗な飾り羽に大小の真珠。白い孔雀だ。 「This pearls I chose. Kitarra helped me sorted these. You know…… I love you, and I respect you. You always stand by me and BT. Thanks. I'll go to school in Manhattan, so I can't be with you, but this is the amulet, and this bird will protect you. 」  矢嶋がしゃべってる途中から、ヘレンさんの目が潤んだ。ベビーパールのような涙が頬を伝って、その着物の膝で音を立てる。ゴージャスな白孔雀よりも、息子の素直な言葉がうれしかったんだろう。ヘレンさんは両手をさしのべて、息子を抱きしめた。ほっぺにキスする。矢嶋は困ったふうに笑ってた。武士さんは貰い泣きしそうになってた。幸せにむせぶ母親の横顔。うつくしい情景だった、いままで見たなかで一番。感情が、波立った。この場で自分だけが異物みたいに思えた。気を抜いたら、声をあげて泣いてしまいそうだった。  ぼくはトイレに行くふりをして、その場を離れた。ほの暗いホールへでて、さらに暗い地下への階段をおりた。何かに蹴爪突(けつまづ)いた。壁につかまって、転げ落ちずにすんだ。段の途中に(うずくま)ったそいつは、クゥーンとさみしげに鳴いた。底光りする双つの目。ぼくはそこに座りこんで、目と輪郭しかわからない犬をさすってやった。 「何してんだ、こんなとこで。痛かったか、ごめんな」  温かい毛皮。それを撫でながら、自分の感情を落ちつけようとした。浮かんでくるヘレンさんの泣き顔。ああいう真っ直ぐな愛情表現を、母にもらったことがなかった。ぼくの母は冷淡だったし、そういう人なんだとぼくも諦めていた。母が家をでてからは、あんな女どうでもいいって思ってた。いままで母親のいる友達を羨んだこともなかった。けれど、気づいてしまった。ぼくは自分の気持ちに蓋をしてただけだ。ああやって潤んだ目で、見つめられてみたかった。愛されたかったんだ、他の誰でもなく母に。気づかなければよかった。いまさらどうしようもないのに。ぼくは膝をかかえて、小さくなった。ぼくの手を、サー公の薄っぺらで熱い舌が濡らす。慰めてくれるのだろうか。嬉しいんだか、悲しいんだか、わからなくなった。  どのくらい経ったんだろう。薄卵色(うすたまごいろ)の明かりが地下階段を満たした。サー公は眩しそうに目をつむる。ぼくはスイッチのほうを見やった。階段のうえに矢嶋。 「どこ行ったかと思った。何やって……」  その言葉尻が消えいった。ぼくの目が赤いのがわかったんだろう。ぼくはそっぽを向く。 「おまえ、マンハッタン行っちゃうんだ」  矢嶋は顔を傾げ、からかうような声をだす。「さみしいか?」  そういう意味で泣いたと思わせたろうか。ぼくは誤解させてばかりいる。でも、それを訂正するのは嫌だった。ぼくはサー公の背中を撫でつづけた。矢嶋は段をおりてきて、ぼくの隣に座った。 「先週の月曜、おれ休んだろ。むこうに実技試験(オーディション)に行ってたんだ」 「その髪でぇ?」  矢嶋はグリーンの髪を掻きあげて笑った。「もちろん。ミスタ・エビハラが推薦状(リコメンディーション)書いてくれたんだ。十人うけたら、二人しか合格しない試験だ。面接(インタヴュー)は緊張したけど、サラッサァテを弾くのは平気だった。手ごたえはあったよ。結果がわかるのは来年だ。もし受かったら、おれは行く」 「行くとしたら、いつごろ」 「そうだな。授業(レッスンズ)は九月からだけど、いろいろ準備あるから七月には行かなきゃな」 「卒業まで待たないの?」 「あのガッコ卒業して、いいことあるか?」 「それもそうだな」 「まあ、うっかり落ちたら、卒業までいるさ」 「手ごたえあったんだろ。大丈夫だよ。おまえ、すげえよな。自分でどんどん決めて、どんどん行動してさ。正直、かっこいいと思う」 「なんだ、急に。キモチワルイ」 「気持ち悪いってなんだ。人が褒めてんのに」  ぼくは眉間と鼻を皺にした。矢嶋はしらっという。 「その表情、ブサイクだからやめろよ」  ぼくはTゾーンをこすった。「人にキモチワルイだのブサイクだの、おまえはデリカシーってもんがないのか」 「デェリカシィ」 「発音なおしてくれなんつってないんだよっ」  矢嶋の歯列矯正器が光った。悲しいのがぶりかえしてきた。ぼくは顔を膝頭にうずめた。 「デェリカシィなんかあるわきゃないよな。学校くんな、とか人にいうんだもんな」  あのときのことを、ぼくは根に持ってた。あんなふうにいわれなきゃ、屋上のへりを歩いたりなんかしなかった。矢嶋のあせった声。 「あれは、そうじゃなくて……」 「じゃ、なんだ」  矢嶋は横顔を向けた。「見てられなかった」 「噓だぁ。どうきいても、そんな意味にはとれなかったぞ」 「おまえが来なくなればいいと思ったんだ。あんなやつらに潰されるくらいなら」 「おれがショックのあまり自殺したら、どうする気だったんだ?」  矢嶋は気まずいのか、不機嫌そうな顔をつくった。ほんとうはわかってるんだろう。それでも謝らないのが、こいつらしいといえばこいつらしい。ぼくはため息をついた。矢嶋はサー公の鼻づらを掻きながら、ぽつりと切りだす。 「、っていうんだ」  はっとして、矢嶋を見た。去年の冬、横浜行きの快速のなかで、ぼくはその言葉をいった。 「教室で、何人かでとりかこんでさ、そういうふうにいう。こっちの小学校のときだ。それで、おれがなんかしゃべると、発音がおかしいって笑う。たいしたことじゃない。でも、それが毎日だと、だんだん気持ちが折檻(せっかん)くらってる犬みたいになってくる。だから、そのころはあんまりガッコ行かなかった。  ウゴーノシューが、どうおかしいのか、おまえはちゃんと説明したろ。そんなやついなかったんだ。だから……」 「だから?」 「だから……つまり、そういうことだ」 「なんだ、それ」  ぼくは苦笑した。矢嶋は明言をさけたけど、いわんとするところは伝わっていた。ぼくは暖かい色の白熱灯を見あげた。 「てっきり、おまえはおれをいじめて喜んでんのかと思ってた」 「それもあるけど」 「あんのかよっ」  矢嶋は笑った。ぼくらは黙りこんで、サー公を撫であった。サー公はなんとなく迷惑そうだった。矢嶋はAVルームのドアを指差す。 「どうだ? 《耳をすませば》借りたんだ」  《耳をすませば》は先々週の金曜ロードショーでやったばかりだが、ぼくは見のがしていた。矢嶋にいったっけ? あすは秋分の日で学校はない。夜更かししても大丈夫。でも、ぼくはそんな気分になれなかった。 「いや、きょうは帰るよ」  矢嶋は不満そう。「遅いだろ。泊まってけよ」 「父さん、ずっと一人にしてもかわいそうだから」  父の病気のことはこいつにいってない。でも矢嶋は察しているようで、それ以上は食いさがらなかった。 「わかった。じゃ、少し待て」  ご両親に挨拶をすませ、ぼくは玄関で靴を履いた。姿見に映る自分が、なぜか知らないやつみたいに見えた。階段から矢嶋はおりてきて、何か突きだす。手提げの紺の紙袋。 「遅れたけど、ハピブゥスデイ」 「マジで?」 「それと、パァル拾いの礼」  ぼくは受けとって、手を袋につっこんだ。掌に収まるほどの鳩鼠色(はとねずいろ)の箱、ごくシンプルだけど金色のリボンがきれいに結ばれていた。その外身だけで、ぼくは感激した。こんな本格的なプレゼント、小学生のクリスマス以来だ。 「うれしい。あけていい?」 「だめ」 「えっ」  その気満々でリボンを摘まんでいたぼくは、あわててそれを整えなおした。矢嶋は笑う。 「大人になったらあけろ。今は役に立たない」 「ハタチんなったら、ってこと?」 「おまえが自分で大人になったと思ったら」 「難しいな、それ」  折り目正しい小箱。期間未定のタイムカプセルか。 「ま、いいや。ありがとう。大事にとっとく」  矢嶋は歯列矯正器を穏やかに光らせた。  嫌な音がした。排水口から下水が逆流するような。サー公のいるあたり。矢嶋が駆けだして、地下へおりてゆく。 「Sir, Sir! What's wrong? Are you okay?」  矢嶋の声は泣きそうにきこえた。ぼくはスニーカーを脱ぎ捨てて、あとを追った。階段を踏みはずしそうになる。  地下室の双子のドアのまえ、しゃがんだ矢嶋のかたわらでサー公が伏せていた。水のような便でお尻と床を汚して、それにハッキリわかるほど血が混じってた。ぼくはその場から動けなかった。ぼくが蹴飛ばしたせいなんじゃないかと思ってた。      ♂  十一月最後の月・火・水曜日が二学期末試験。期間中、教室の席は出席番号順だ。教卓の斜め前のA席、菊池雪央のブレザーのふくよかな背中。なぜか河合一派と行動をともにする菊池とは学校じゃ堂々と口を利けない。その代わり、手紙や電話でやりとりを重ねてきた。ただ、今月は一通も来てなかった。前学期末試験のときの向日葵の封筒を思いだす。今回も試験の終りにくれるつもりなのかもしれない。  三日目の最終試験。終業のチャイム。ハイッそこまで、と渡辺茂樹先生がいった。裏返した答案用紙を、最後尾の席のやつが回収して教卓のナベさんに差しだす。ぼくは菊池を見つめて、どきどきして待ってた。  だが、席順をレギュラーに戻す段になっても、緊張した背中はふりかえらなかった。菊池はそそくさと荷物をまとめて、窓際の席へ行ってしまう。ぼくは肩を落とした。  ぼくの横に誰かが立った。ここの席の本来の主、デブの萩山大輔だった。やつは唇をつめたくゆがめる。 「邪魔」  ぼくはさらに落ちこんで、自分の席に帰る準備をした。      ♂  自分の部屋で顔にプッシュホンの子機を添えた。宇多田ヒカルの歌じゃないけど、七回目のベルで相手は受話器をとった。 『はい、もしもし?』  幼い声。弟だろうか。ぼくは対ガキンチョ用のフレンドリーな声をだす。 「菊池さんちだよね? クラスメイトの北浦だけど。お姉さんはいるかな」 『ねえちゃんのカレシですか?』 「えっ、いや、あの、その……」  小学生相手にしどろもどろになる。やつは笑い声。笑顔が浮かぶようだ。 『少々おまちください。よんできます』  受話口から《グリーンスリーブス》が流れだした。暗いムードのイングランド民謡をきくともなしにきく。学習机の透明なビニールカヴァーの下には、太平洋を真んなかにした世界地図。日本と英国の時差はマイナス八時間。 『すいません。いないっていって、っていってます』  しょんぼりした声。菊池弟は正直者らしかった。わかった、ごめんな、とぼくはいった。子機を太平洋に置く。  仰いだ天井の白。吹雪の晩の菊池の雪ん子みたいなセーター姿・前の席で揺れるポニーテールと日焼けしたぼんのくぼ・たあいもないことを一生懸命しゃべるときのあどけない声音・祭りの夜の婀娜(あだ)っぽい浴衣姿・机の落書きをこすり消した小さな手・メイクのとき真剣に見つめてきた焦色(こがれいろ)の目……。あの子はぼくが好きなはずだった。それは手を伸ばせばふれられるくらい、たしかなことだった。けれど、もう、そうじゃないんだろうか。  ほんの少し、ほんの少しだけ泣きそうで、ぼくは額を膝にぐりぐり押しつけた。      ♂ 少年のアイスブルーの眼球を融かしつづける瞼の微熱

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