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望まぬ夜明け 40

「これが俺達の最後の望み、か。皮肉な物だな」  夜の合間に佇むクレインには薄らと闇に浮かぶ外殻に覚えがあった。  あれは一度、自分達の前に脅威として立ちはだかった物――ファーブニルの館で応戦した竜の姿に酷似している。  召喚されたのが、過去にイザール自身を窮地に陥れた存在であることを思い出し、クレインは琥珀を苦々しげに細めた。  当時から既にイザールは亡骸となったそれを操っていたが、魔法で更に禍々しさを増した様相には辟易するしかない。  今の屍竜の瞳が宿しているのは蒼炎ではなく、術者の魔力が引き寄せた数多の穢れと邪念の集積体の象徴である紫焔だ。  常闇に根差す屍竜は目下の矮小なる存在達を一瞥すると、朽ちかけた爪で枯草を掻いた。  その部分から大地の腐食が広がり、踏み締めていた場所が一瞬にして黒ずんだ腐葉土へと変化していく。  辺りに溢れる死臭と共に突如として現れた脅威を信じられず、アリオットは思わず首を横に振った。 「冗談じゃない。まだあんな物を呼び出せる力が残ってるなんて、」  死した肉体ならどんな物でも従える――噂に聞いたイザールの力はあながち間違いではなかったと、彼は何処か遠くでそう考えていた。  同じくヴィルゴーも愕然とした表情で刃を構えたまま立ち尽くしていた。  人の大きさを優に超える体躯もそうだが、イザールの持つ魔力と同等の瘴気を放つそれは手に負える存在ではない。  黒衣の魔物と対峙した時以上の覇気が自分の肩に圧し掛かってくるのを彼はひしひしと感じていた。 「この魔物は緩やかな存在の瓦解、侵蝕、滅びを待つだけの、それでいて現世に在り続ける"矛盾"の塊です」  それはいかなる消滅も受け入れず、いかなる存在意義も持たない虚構の化身だと、イザールは続けた。  たとえ炎に焼かれようとも、この魔物は生きることも死ぬこともない。  ただ、そこに在る。ただ、底で朽ちる。ただ、寂莫とした思念を術者と同じく抱えたまま。 「さあ、貴方達は"矛盾"になることが出来ますか」  もしそれが出来なければ、待つのは滅びだけだ。  そう告げたイザールは敵の殲滅を命じた。  骸の竜は緩慢な動きで四肢を折りその場に身を横たえる。  揺らぐ紫焔が捉えたのは夜風にたなびく赤銅色だった。  標的となったアリオットは息を呑んで紫焔の眼窩を凝視した。  だが、発動体を破壊されてしまった以上、自分に抵抗の余地は残されていない。  そうしている間に屍竜が続く大地へ濁った色の瘴気を吐き出した。 「……なッ、!」  初めはそれがどんな意味を持つのかアリオットには分からなかった。  ただ自らの足元、いや、靴先を見て思わず声を上げる。  そこには革が腐食して溶け出した跡があり、地面を踏み締めていればいずれ全てが侵蝕されるであろうことが容易に理解できた。  そして、近くにいたクレインもその様子を見てイザールのいる方へ後退った。  あの稀代の冒涜者が死力を尽くして呼び出した魔物だ。  今でこそ使役は出来ているが、術者に何かあれば途端に自分達へ牙を剥く危険な存在になりかねない。 「い、嫌だ、来るなっ、……!」  腐敗から逃れるようにアリオットは背を向けて走り出した。  それでもなお、追いかける死の誘いがローブの裾を溶かしていく。  徐々に蝕まれていく衣服と漂う死臭に彼は叫びながら半狂乱で茂みの方へと向かっていこうとした。  ぐじゅ、と柔らかい物が潰れる音。  暗がりの手前で何かを踏みしだき、アリオットはその異質さに一瞬だけ足を止めた。  そして、後悔した。 「ああ、あ、嘘だろ、待ってよ、そんな、」  踏んだのは『つい先まで身体の一部だった物』で。  気付けば靴は無くなり、地面に触れている自分の足裏が爛れたように溶けていた。  痛みや違和感さえ感じないまでに肉体が崩壊を始めようとしている。  皮膚が溶け、肉を蝕まれ、骨まで失ったら、もう助かる見込みはない。  アリオットは屍竜を畏怖の目で見つめた。  屍竜は只それを虚ろな色で見つめ返すだけで。  闇の覇者には慈悲の懇願など通じるはずがない、と彼は乾いた笑いを漏らして死の訪れを待っていた。  ――しかし。 「嗚呼、これは何とも酷い画だね。とても見ていられた物ではないよ」  これ以上の腐食を食い止めたのは鬼気迫る中でも飄々とした台詞と純白の閃光だった。  光は侵蝕する闇を打ち払うと、全ての穢れを寄せ付けない聖域の加護を生み出していく。 「……あ、アルファルドの旦那、っ!」  上擦った声で救世主の名を呼んだ彼は、すぐ隣に現れた使徒へ縋りついた。 「だ、旦那、……俺、足が溶けて、」 「ああ、本当だね。心配しないでもちゃんと治してあげるよ」  幼子をあやすように縋る金髪を梳いた使徒は、祝福の魔法を紡いで彼に治癒を施した。  表皮が削れて内側の赤が見えていた部分に真新しい皮膚が生み出されていく。  だが、治療は済んだものの、恐怖で腰を抜かして立つに立てない様子の魔術師に、アルファルドは肩を竦めていた。 「困ったな、君には別の仕事を頼みたいのだが――そうだ、少し手を貸してくれないかい」  紅玉の瞳の先、傍観を決め込んでいた赤獅子は返事の代わりに眉間に皺を寄せた。  だが、ここで足を止めていては事が進まない。  レグルスはアリオットの襟首を掴むと、半ば強引にその場に立ち直らせた。  当人はされるがままになっていたものの、やがて足先が元に戻ったことを理解すると光の加護を受けた地面をしっかりと踏み締めていた。 「ありがとう、助かったよ。アリオットがこのままではどうにもならなかったからね」 「俺はこの"取引"をさっさと終わらせたいだけだ。テメェに協力する訳じゃない」 「分かっているさ。条件は貴殿の仲間を生かして帰すこと。でも、イザールは果たしてそれを受け入れるかな?」 「この話にアイツの情は関係無い。"取引"に必要なのは俺自身がどんな結果を求めるかだけだ」  使徒の好奇を宿した目を一瞥し、レグルスはそう吐き捨てた。
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