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第二章 二十話

 上手く説明しておく、という寮監督の言葉に嘘はなかったらしい。  あのことがあった翌日、家族から大和を心配する電話がかかってきたが、退学を促されるようなことはなかった。 「気が変わったらいつでもドイツにおいで。みんな心から待ってるよ」  温かな声でそう言われただけだった。  寮長室に移ったからといって生活に変化はない。変わっていくのは刻一刻と成長し続ける向日葵だけだ。最初は二枚だけだった葉も四枚、六枚と増えていき、丈もいくらか伸びた。  今のところ七粒の種のうち五つは順調に育っている。ふたつは途中で成長を止めて、そのまま枯れてしまった。  たったひとつの大きな変化は馨が傍にいることだ。  馨の傍にいれば夏の光のような笑顔をいつでも見られる。そう思っていたが、それは間違いだった。  人間は楽しいことがなければ、そうそう笑ったりしない。馨がいつも笑っているように見えたのは、隣にいるのが泉を始めとする友人たちだったからだ。大和みたいに冗談のひとつも言えないどころか、ろくに会話もできない人間が相手では馨だって笑うわけがない。  そんな当たり前のことすらわかっていなかった。  それでも前は笑ってくれたのに――  一緒に昼食を食べていたころが懐かしい。少し前の話なのに、なんだかずいぶん昔のことのように思える。  消灯の二時間前――  大和は椅子に座って馨の横顔をながめていた。  馨はほとんどの時間を娯楽室や友人の部屋で過ごすが、消灯二時間前になると必ず部屋にもどってきて勉強に取りかかる。勉強なんてまともに取り組みそうにない見た目なのに、何の努力もなしに優秀な成績を修め続けているわけじゃないようだ。  一年の大和には三年の勉強のことはよくわからないが、参考書のタイトルを見るだけでもかなり高等な勉強をしているのはわかった。 「……なに?」  大和の視線に気づいたらしく、馨はシャープペンを動かしていた手を止めた。視線が合ってどきりとする。  あのときはてっきり馨を怒らせたかと思ったが、部屋にもどってきた馨はいつも通りの態度だった。もう怒鳴ったり、きつい言葉を投げかけてきたりはしない。ただ以前ほど大和に優しくなくなったのは笑顔の量でわかる。 「わからないところでもあった?」  ただ見ていただけ、と言ったら嫌がられそうな気がしたので、大和は開いていた問題集を適当に指差した。 「ああ、これはね……」  椅子を寄せると、わかりやすく説明しながら数学の問題を解いていく。馨の身体が近くなった弾みに爽やかに甘い香りが鼻先をかすめた。お菓子の甘い香りとは違う、森林を思わせる香り。大和は馨の首筋に顔を近づけると、くんと鼻を動かした。 「ちょっと、なに」  馨は首筋を手で押さえながらびっくりした様子で身体を引いた。 「いい匂いがしたから」 「――あのねえ、人の匂いをかがないの。犬や猫じゃないんだから。そんなことされたらおかしな気分になる奴がいるかもしれないでしょ」  馨は呆れと苛立ちと途惑いが綯い交ぜになった複雑な表情で大和を睨んだ。睨まれても少しも怖くなかったのは途惑いがいちばん色濃かったからかもしれない。 「おかしな気分?」  大和が首を傾げると、馨はますます大和を睨んできた。 「……ひょっとしてわかって言ってない? 俺、男から羞恥プレイを受ける趣味はないんだけど」 「しゅーちぷれいって何?」  生まれて初めて耳にする言葉だ。頭の中で上手く漢字に変換できなかった。 「――なんでもありません。テストには絶対に出ない言葉だから忘れてちょうだい」  馨は椅子の位置をもどすと、ふたたび自分自身の勉強に取りかかった。  そう言われても意味がわからないままだと気になってしまう。大和は机の端においてあったスマートフォンを手に取って検索しようとした。が、 「いちいち調べなくていいから。ほら、さっさと勉強の続きをやって」  馨は大和の手から取り上げると電源を切ってしまった。  いったいどんなすごい意味があるんだろうとますます気になったが、これ以上しつこく調べようとすると馨を本気で怒らせそうなのでやめておいた。
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