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第50話 初夏の便り(4)
「桂木宏武さんですよね」
「そうですが」
なぜこの男は、自分の名前を知っているのだろう。どこかで会っただろうか。
仕事で時折打ち合わせることもある。そういった時に知り合う人間もいるが、よくよく見てもやはり見覚えがなく、思い出せそうになかった。
「十年前からお変わりないですね。いやぁ、びっくりしました。いまもピアノは続けてらっしゃるんですか? わたし、あなたの音色がすごく好きだったんですよ」
「え?」
この男は一体なにを言っているのだろう。誰かと間違えているのか。だが確かに自分の名前を知っていた。
同姓同名の赤の他人――そんなことも浮かんだが、こんなに間近で顔を合わせて、人を見間違うだろうかという疑問も湧いてくる。
そういえば十年前、自分は一体なにをしていただろう。大学には進学していないので、働いているはずだ。
歳は二十一くらいか、自分はその時なにをしていたんだろう。
たかだか十年前のことなのに、思い出そうとすると霞がかかったようにぼやける。
「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「もしかしてまだあの事件のことが」
事件? 一体なにがあったと言うんだ。思い出そうとすると、頭が割れそうになるくらい激しく痛む。
頭を抑えて俯くと、目の前の男は心配げな表情を浮かべて、肩に手を置いた。
その手を反射的に振り払ってしまう。
それでも男はなにかを話しかけてくるが、言葉がまったく頭に入ってこない。
顔を背けて俯いたら、さすがにこちらの様子を察したのだろう。男はもの言いたげな表情を浮かべてはいたが、大人しくその場を去って行った。
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