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第6話

 月末で定年退職となる上司の送別会があったのは、それから二週間ばかりが経った頃だった。  参加人数の多い飲み会に気が滅入りはしたものの、世話になった相手だけに、顔を出さないわけにもいかなかった。真夏日の続くさなかのことで、こんな日はビールが美味いだろうと声を掛け合う同僚たちに混じって、居酒屋の暖簾をくぐった。  送られる側の人徳だろう、部署をまたいでかなりの人数が揃っていた。長々とした挨拶と乾杯のあとにビールジョッキをぶつけると、運び込まれる料理に、みなが好き好きに箸をのばした。 「ありがとう、あとは自分で適当にやるからいいよ」  自分の皿に料理を取り分けてくれようとする後輩を手で制して断ると、逆に身を乗り出してこられた。「えー、だけど押川さん小食ですよね。普段ちゃんと食べてます?」 「食べてるよ。でも飲むときはあんまり食べものほしくない派」 「あー、たまにそういう人いますよね。だけど胃によくないんじゃないですか?」  まあ、ほどほどに食べるよと、心にもないことを言いながら、わずらわしさを態度に出さないよう苦労した。  アルコールに弱くない体質に生まれたのは幸いだったと、つくづく思う。飲まず食わずではさすがに目立つ。  酒飲むときだけやたら煙草吸いたくなるっていう人もいるよね、そういえばあれどうなったんだろう飲食店の分煙規制。そんな雑談に話が逸れていくのに紛れて、こっそりと溜め息を吐いたところで、離れたテーブルの朝永と目が合った。  心配、してくれているのだと思う。  罪悪感に胸を刺されて、そのことを顔に出さないように、軽くジョッキを掲げて笑顔を向けると、朝永の反応を待たずに目を逸らした。  あれから朝永は何も言ってこず、以前と変わらないように接してくれていた。  それに甘えている自分のずるさを、自覚している。それでも、はっきり拒絶して距離を置くということを、どうしてもできないまま、時間だけが過ぎていた。  全体に和やかな送別会だった。名残を惜しむ言葉が飛び交い、思い出話に笑いが起こる。雑談に混じってあたりさわりのない相槌を打ちながら、料理が出てくるたびにそこここで感心の声や歓声が上がる宴会の風景を、どこか薄皮一枚隔てた向こうのように眺めていた。  誰かと食事を共にすることを苦痛に感じる自分の性質が、他人と深く関わることを難しくしている。そのことをあきらめて、肌に馴染んだ寂しさをいちいち意識しなくなったのは、いつ頃からだっただろう。  主役のところに酒を注ぎにいって挨拶をしたあとは、途中でこっそり抜け出すつもりでいた。はっきりと体調を崩したのはあの一日だけだったけれど、まだ少し、胃が荒れ気味だった。  けれど席を外すタイミングを見計らっていたちょうどそのとき、赤ら顔の部長が目の前にどっかりと腰を下ろして、 「なんだあ、押川。お前、またぜんぜん食ってないじゃないか」  酔っ払いに特有の大声でそんなふうにどやされて、完全に逃げ出す機を逸した。 「そんながりがりでどうすんだお前。肉を食えよ、肉を」  目の前に押し出された料理に、箸をつけないわけにもいかなくて、礼を言いながら箸を取った。  普通に仕事をしていれば、どう避けたところで人と食事を共にする場面は出てくる。いくら苦手といっても、いつもだったら仕事のうちと割り切って、気持ちを切り替える。ずっとそうしてきたし、今回も同じようにできるつもりだった。  けれどなぜだか、今日にかぎってうまくいかなかった。かろうじて、笑顔を崩しはしなかったと思う。それでもじっと見られているうちに、いやな汗が滲んで、胃が痛んだ。  気の持ちようひとつなのだと、頭ではわかっている。子どもの頃のあの出来事が異常だっただけで、ふつうの人は、他人がものを食べるようすなんか、何とも思っていない。  目の前にいる上司が、少しばかり押しつけがましいところはあっても、けして悪い人でないのも知っている。それなのに、じろじろと見られて、体が勝手に過剰な反応を起こす。 「なんだ、女みたいにちまちま食いやがって。おれらの若いころなんかなあ」  そう嘆いて昔話をはじめた部長は、すでにかなり酒が入っているようだった。感心しているふりをして、何度かそれとなく話題を逸らそうとしてみたけれど、うまくゆかずに、話題はぐるぐるとおなじところに戻ってくる。  笑顔がひきつっていない自信はなかった。それでもどうにか料理を口に運んでは無理やり飲み込んで、胃がいやな跳ね方をするのを、どうにか堪えていた。 「だいたい日頃からしっかり食わないから、こないだみたいに体調崩して休むなんて情けないことになるんだよ。お前、メシの心配してくれる相手のひとりもいないのか?」  適当にかわすための言葉さえ、もうまともに浮かばなくて、それでもとにかく何か返事をしようと、口を開きかけたところで、 「部長、おれには一回もそんな心配してくれたことないですよね」  冷酒を手にした朝永が部長のとなりに座りながら、そんなふうに矛先を逸らしてくれた。 「朝永は殺しても死ななさそうだからな」 「あっひどい、差別だ!」  ぎゃあぎゃあいっぺんに騒がしくなった談笑の輪の中で、同僚たちと一緒に笑ってみせた。  よくこらえたと思う。  もう不自然ではないだろうというところまで耐えてから、ちょっとトイレ、と言い残して席を立った。  飲み食いしたものを全部もどしても、胃のけいれんが収まらなくて、胃液だけを二度吐いた。  生理的な涙がにじむのを拭いながら、情けなさで死にそうだった。早めに宴席に戻ろうと思うのに、いつまでも吐き気がおさまらない。トイレの床にうずくまっていると、個室の外で人の気配がした。  邪魔になっていることを申し訳なく思って、ひとまず水を流した。同じ会社の人じゃないといいと願いながらドアを開けると、そこにいたのは朝永だった。  様子を見に来てくれたのだと気づいても、顔色を取り繕う余裕もなかった。 「ごめ、」  もう何も残っていない胃が執拗に跳ねて、ふたたび便器にしがみついた。  何度もえずいて、やっと少し落ち着いたのは、だいぶ経ってからだ。大丈夫かとも聞かないで黙って背中をさすってくれていた朝永が、通りかかった店員に声を掛けて、水をもらってくれた。口をすすいで、少し気分がましになると、ようやく羞恥と情けなさが追いついてくる。  すみませんと、店員に詫びるだけで、我ながらひどい声が出た。 「ご迷惑をおかけしました」 「いえいえ、大丈夫ですか?」  そう言って冷たいおしぼりを渡してくれた人のよさそうな店員に、礼を言ってグラスを返すと、朝永が横から声を掛けた。 「すみません、タクシー呼んでもらえますか」  立てるか、と聞かれてうなずきはしたものの、足元がふらついて壁に手を突いた。 「助かった。さっきも……ありがとう」 「幹事に声かけて荷物とってくる。おまえのも」 「ごめん。……あとはひとりで大丈夫だから」  そう言うと、朝永は顔をしかめて、 「自分がどんな顔色してるかわかってんのか。……いいから、ここで待ってろ」  言って、踵を返した。  タクシーの中でもまだ気分は悪いままだったけれど、どうにか車を止めて路上で吐くはめにはならずにすんだ。会社の近くに住んでいてよかったと、こんなときには思う。  朝永は住所を運転手に告げたきり、家につくまで黙ってそっとしておいてくれた。 「悪かった。ほんとうにもう大丈夫だから」  一緒にタクシーを降りようとするのを、制止するつもりで言ったのだけれど、朝永は退かず、 「――こんなときに変な気を起こしたりしないから、心配くらいさせろ」  憮然とした面持ちでそう言った。  それ以上強がるひまもなく、胃がふたたび跳ねた。  鍵を開けるまでもちこたえたのは、せめてもの幸いだったけれど、こらえきれたのは、トイレに駆け込むまでだった。またしても胃液だけを吐いて、床まで汚した。  トイレットペーパーをたぐって床の始末をしながら、どうして今日にかぎってこうまでと、情けなさのあまり顔を上げられなかった。 「病院に行った方がよかったな」  近所の夜間外来を調べようというのか、朝永がスマホをいじりながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してきてくれた。つめたい水で何度か口をすすぐと、ようやくまともな声が出た。「おおげさだよ。胃薬あるから、だいじょうぶ」 「どこ」  場所を伝えると、朝永は引き出しから胃薬を探しだしてきてくれた。  ちゃんと着替えるだけの気力は残っていなかった。襟もとだけ緩めて、ソファに横になる。足を伸ばせもしないサイズではあるけれど、また吐かない自信がなくて、ベッドよりもトイレに近いこっちのほうがいい気がした。  朝永がタオルを濡らして持ってきてくれたのを、額にのせると、ひんやりとした感触に、いくらか気分がましになった。 「悪い……」  言いながら、目を合わせきれなくて、タオルを目元まで引き下げた。  朝永が、ソファにもたれるようにして、すぐ傍の床に座る気配がした。  少しのあいだ、ふたりして黙り込んで、 「あのさ」  しばらくしてから、朝永が沈んだ声を出した。 「おれ、部長と同じこと、おまえにしてたか」  とっさに顔を上げた。朝永はこっちに背中を向けていて、表情は見えなかったけれど、その声音に滲む自責の色に、胸が苦しくなる。 「そんなわけ、ないだろ」 「だけど、おまえ……」  朝永は信じるかどうか、迷うような声を出した。  ――たのむから。  いつか公園で聞いた声が耳に蘇る。  朝永が、もっと食べろと言うたびに、どういう顔をしていいか、わからなかった。困っていなかったと言えば嘘になる。だけど、 「お前は」  ずっと、心配してくれていた。そのことが情けなくて、自分がみじめに思えた。それでも朝永の親切をはねのける気になれなかったのは、ただ見放されるのが怖いからというだけではなくて、 「――ぼくが、食べてるところを見られるのが苦手だって、最初から気づいてただろ。ずっと、あんまり見ないようにしてくれてたよな。何も聞かないで」  思えばそれは、最初のころからそうだった。「お前のそういうところに、ぼくが、どれだけ」  その先は言葉にならなかった。朝永はいっとき黙って、 「なんか、わけがあるんだろうなとは思ってた」  しばらくして、そう言った。 「いつか話してくれるかと思って、待つつもりだったけど」  迷うように言葉を切って、それから朝永は、ためらいがちに続けた。「おまえ、しんどいときもひとりで抱え込んでるように見えて、それがずっと寂しかった。言ってくれたらいいのにって」  その言葉を聞いて、張り詰めていたものが不意にゆるんだ。  もう、いいんじゃないかと。そんなことを思った。  ずっと言えないでいたことが、いくつもあった。誰にも言わなかったことも、朝永にだけは知られたくないと思ってきたことも。ぜんぶ話してしまえば、楽になれるような気がした。  だけど、口を開きかけたその瞬間、一度に蘇ってきたのは、  汚いものを見るような母の目つき、  みっともないと罵る声、  体じゅうを占める、突き上げるような空腹感、  戸棚の奥に見つけた睡眠薬の錠剤の手触り、  甘ったるいチョコレートの味、  あくまで優しかった、男の手の感触。    ひゅっと、喉が鳴った。  息がうまくできなくて、反射的に体を丸めた。タオルが顔からずり落ちる。胃の底に冷たい鉄のかたまりが落ちてきたようだった。指先が冷たく痺れて、胸が苦しい。 「……押川?」  なんでもないと、言おうとした。だけど声を出すと、崩れてしまいそうだった。 「押川」  朝永が支えようと伸ばした手を、自分が振り払おうとしたのか、すがろうとしたのかもわからない。  ただ気がつくと、朝永の肩が目の前にあって、 「無理に話そうとしなくていい」  頭の上から、悔やむような声が振ってきた。 「ごめん。……こないだも、話したくないことを言わせたばっかりなのにな」  違う、と思った。  朝永は、何も悪くない。先日の一件だって、ぼくが勝手に癇癪を起こしただけだ。  だけどぼくが謝るよりも早く、朝永が続けた。 「頼ってほしいとか、なんでも話してほしいとか。そんなふうに思うのは、おれのわがままで」  一瞬だけ、背中を抱きとめる手に力がこもって、 「おまえが気に病まなくていいんだ」  そっと体を離して、朝永は視線を揺らした。  もとのように床に座ってから、迷うような間のあとに、朝永は言葉を落とした。「……手だけ」 「え」 「手だけ、握っててもいいか」  自分の手が、すがるようにソファの縁を握りしめていたことに、言われてから気がついた。  朝永は返事を聞かずに、手を重ねてきた。いつでもふりほどけるだけの力で。  その手は温かかった。  反射的に、指を絡めて握り返してしまってから、自分の中に押し込めていたどうしようもない人恋しさを思い知る。  それは、ずっと前から胸のうちに居座っていた感情だった。その存在を知っていて、なるべく直視しないようにしてきた。折り合うしかないものだと、あきらめてしまったつもりだった。誰かと深く関わることは、自分には無理だと思っていたから。  朝永は何も言わずに、そのままずっと、手を繋いでいてくれた。
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