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第7話

 懐かしい、夢を見た。  高校の、旧校舎の屋上だった。よく晴れた空に、朝永が吸う煙草の煙が流れていくのに、ぼんやり見とれていた。  夢の中で朝永が何かを言った。その声の響きだけが耳に残ったまま、ああ夢かと気がついて、まどろみの中でいっとき朝永の言葉を思い出そうとした。けれど記憶は煙のように、あっという間にどこかに溶けさってゆく。  目を開けて、電気を点けたままだったことに気がついた。カーテンを閉め忘れた窓から、高くなりかかった日射しがさしこんで、ソファにもたれて座ったまま眠っている朝永の寝顔の、半分だけを照らしていた。  一晩中繋いで同じ体温になった手を、離しがたくて、いっときそのまま息を殺してじっとしていた。  さっきまで見ていた夢の、たしかな内容はもう思い出せなかったけれど、屋上で煙草を吸っていた朝永を追いかけて自分も授業をさぼったのは、実際にあったことだった。  ――押川?  あのとき。足音に気づいて振り返った朝永は、ひどく驚いたような顔をした。  ――よくわかったな、ここにいるの。  ――お前、授業中よく窓からここ見上げてるから。もしかしたらと思って。  ――おれ、そんなにしょっちゅうぼーっとしてるか? ……まあ、してるかな。  朝永は笑いながら煙草を踏み消して、律儀に吸い殻を拾った。かがむとき、少しよろめくのがわかって、つい目を逸らしたことを覚えている。  そのころ朝永は、靱帯をやって、陸上をやめたばかりだった。  もともと陸上は高校までのつもりだと言っていた。たいして才能もないし、大学に行ったら適当にゆるいサークルとかに入って遊ぶよと、そんなふうにうそぶいていたけれど、本当はけっこう真剣だったことを、ぼくは知っている。  引退前の最後の大会が目前だった。悔しかったに決まっているのに、朝永は悔しがるところを誰にも見せなかった。ただ、ときどき授業をさぼって姿を消すようになった。いつもどこで時間を潰しているんだろうと、気になっていた。  ――だけどおまえがサボリなんて、めずらしいな。いいのか?  ――腹が痛いって言ったら、先生、信じてくれたよ。  ――まじか。おまえ信用あるな。  ――普段の素行がいいから。  ――自分で言うか。  笑って、朝永は新しい煙草に火を点けるかどうか、迷うような顔をした。手にしたパッケージには、まだたくさん中身が残っているようだったけれど、箱は握りつぶしかけたあとがあって、くしゃくしゃになっていた。  ――煙草、おいしい?  なにかもっと、気の利いたことを言いたかったけれど、思いつかなくて、結局そんなどうでもいいようなことを聞いた。  ――んー。  あいまいに笑って、朝永は煙草の箱を振って見せた。  ――中坊のとき、従兄が吸ってるの見て、羨ましかったんだけどさ。べつに、うまくはねえな。  ――そっか。  おまえも吸ってみるかとは、朝永は言わなかった。  ぼくが奨学金を必要としていて、内申を気にしていることを、あらためて話したことはなかったけれど、朝永はいつからか察していたように思う。  朝永の嘘は、いつも優しい。  そのことに気がつくたびに、自分が恥ずかしくなる。ぼくが嘘をつくのは、いつだって、自分の恥や弱さを隠すためだ。  自分がつらいときにも当たり前のように人を気遣う朝永のことが、眩しかった。  朝永はそのままいっとき手すりにもたれて、グラウンドをぼんやり見下ろしていた。  空はよく晴れていた。風が心地よくて、こんな日に走ったら気持ちがいいだろうという日和だった。何を言えるわけでもなく、朝永がもたれている手すりに背を預けて、隣に座った。  ふたりして黙り込んだまま、長いことそこで風に吹かれていた。ずいぶん時間が経って、そろそろ授業も終わるだろうというころになって、ようやく手すりから体を離した朝永が、グラウンドに背を向けた。その表情は、逆光になってよく見えなかったけれど、  ――ありがとな。  ぽつりとそれだけ言った朝永の声は、いまでも耳に残っている。  つないだままだった手を、ほんの少しだけためらってから、そっと外した。  起こさないようにと気遣ったつもりだったけれど、朝永はすぐに目を覚ました。時計を見て、うわ、もうこんな時間かとぼやく。「今日、土曜日でよかったな。……胃の調子は?」 「平気、だと思う」  そっか、と安堵の息を吐いて、朝永は伸びをした。おかしな姿勢のまま眠ったせいで、あちこち体が固まっているんだろう。関節が鳴るのがぼくの耳にまで届く。 「朝永」 「ん?」 「ありがとう」  ごめんと、よほど言おうかと思って、だけど困らせるだけだと思って、言葉をすり替えた。  朝永は笑って、何も言わなかった。  それから一か月近くが経った金曜の夜、残業を終えて帰宅する途中で、朝永から電話がかかってきた。 「どうかした?」 『伊藤に結婚祝い、渡してきた』  一瞬、口ごもったのは、罪悪感に駆られたからだった。朝永が結局、式を欠席したのを聞いていた。  もう一度謝ろうとしたけれど、結局はごめんのひとことを飲み込んで、 「そっか」  ただ相槌だけを打った。  けれど返ってきた朝永の言葉は、予想の外だった。『ついでに一発、ぶん殴ってきた』 「え」  思わず聞き返すと、電話の向こうで、かすかに笑う気配があった。 『さすがに式の前は可哀想かなと思ってさ』  軽口めいたその言いぐさに、つい呆れて、 「式のあとだって、可哀想だよ」  そう返すと、朝永は一瞬、黙った。 『おまえ、それ、本気で言ってるのか?』  続く声には、呆れの色が混じっていた。それにぼくが何か言い返すよりも早く、 『いや……本気だよな。おまえの、そういうところ、』  朝永はそんなふうに何かを言いかけて、途中でまあいいやと続きを飲み込んだ。  何を言いかけたんだろうと、頭の隅でぼんやり考えながら、口ではぜんぜん違うことを訊いた。 「奥さんとも会えた?」 『ああ。タイミング悪くて、ちょっと喋っただけだけど』 「そっか。どんな人だった?」  朝永が答えるまでに、少し間があった。『気になるのか?』 「変かな」 『……いや。式のときの写真もらったから、あとで見せるよ。帰りに寄っていいか?』 「うん」  じゃあ、あとでと電話を切ってから、自分でも自分の心境の変化が不思議だった。  ずっと伊藤のことは、なるべく思い出さないようにしていた。つい先日は、朝永の口から名前を聞いただけであれほど動揺したのに、いまは普通に話題にすることができる。  あの日。何を言っても聞く耳をもたなかった伊藤は、泣いているぼくに気がつくと、急に動揺したように、手を止めた。自分も泣き出しそうに顔を歪めて、  ――悪い、  そう言い捨てて、荒い足音を残して走っていった。  乱された服を震える手でなおして、教室の隅にうずくまったまま、ひとりで泣いた。  涙が出たのは、怖かったからではなかった。望まない相手から乱暴に触れられて、それでも反応した自分の体に、絶望したからだ。みじめさで死ねそうだと思った。  伊藤に掴まれた手首の痣は、数日ほど残っていた。  そのときのことを、思い出さないようにして、全部なかったことにしようとした。もちろんそんなことがうまくいくはずもなくて、何度となく頭をよぎっては、そのたびに羞恥と自己嫌悪とがよみがえった。  いまでも、思い出したい記憶ではないことに変わりはない。それでも、どこか痛みは遠い。忘れようとしていたうちは生々しかった記憶が、朝永に話したことで、かえって少し距離ができたのかもしれない。  部屋にやってきた朝永は手の甲をわずかに腫らしていて、言葉の綾でもなんでもなく、ほんとうに伊藤を殴ってきたらしかった。 「手、……ちゃんと冷やしなよ」  いつ買ったかも覚えていない古い湿布くらいしか部屋にはなくて、コンビニのレジ袋で氷嚢もどきを作って渡したら、大袈裟だと笑われた。それが、いつものやりとりと逆のようで、なにか妙な気分がした。  暦では秋でも、まだ蒸し暑い。ソファに落ち着いて汗ばんだ首元をくつろげた朝永が、スマホを操作して、SNSで送られてきたらしい画像を表示してくれた。  隣に座って覗き込むと、画面の中には並んでケーキに入刀する新郎新婦の写真が映っていた。  白いタキシードを着た伊藤は、記憶にあるよりもずいぶんと大人びていた。小柄な新婦と並んで、照れくさそうに微笑んでいる。 「ああ……」  無意識に、声が漏れた。「幸せそうだ」  朝永は少し黙って、 「……嬉しそうだな、おまえ」  複雑そうな顔で、そんなことを言った。  その言葉に意表をつかれて、目をしばたいた。 「嬉しそうにしてた?」  朝永がうなずくのに、首を傾げた。ぼくは、嬉しいんだろうか。考えてもよくわからなかった。どちらかといえば、安堵した、というほうが近いような気がした。 「二度と会いたくないっつってたくせに」 「会いたくはないよ。だけど……」  ――俺を見ろよ、押川。  そう言った伊藤の苦しげな声と、立ち去りぎわの泣き出しそうな表情を、いまでも覚えている。 「伊藤の性格からしたら、もしかして、まだ気に病んでるかもしれないとは思ってた。……幸せそうで、安心した」  朝永は少しのあいだ黙り込むと、スマホの表示を消して、 「……めちゃくちゃ後悔してるっつってたよ。けど、だからって、おまえがそんなことまで心配してやることあるか」  怒ったように、そう言った。 「お前が言ったんだろ。伊藤とたいして仲良くなかったなんて、嘘だろって」  よく考えて喋ったというわけでもなかったけれど、その言葉は、口に出してしまえば、しっくりと気持ちの中に収まった。 「友達だと……思ってたよ。また会いたいとは思わないけど、どこかで幸せにしてるなら、そのほうがいい」  ふいに落ちた沈黙を怪訝に思って振り返ると、朝永はじっとこちらを見ていた。 「朝永?」 「おまえが」朝永は言いかけて、迷って、けれど結局は続けた。「そうやって、何でも許しちまうの。ときどき腹が立つし」  ひどくもどかしげな口調だった。 「もっと、怒れよって思う」  その言葉が胸に落ちてくるまでに、少し、時間がかかった。 「ぼくは……」  言いかけて口をつぐんだのは、またこのあいだのようなことになるんじゃないかと、自分で不安だったからだ。  だけど、これ以上、黙っていることは耐えがたかった。 「伊藤のことは」言いながら、声が揺れた。けれど少なくとも先日のように、息ができなくなったりはしなかった。「ぼくにも、非があったんだ」 「そんなわけ、あるか」  朝永が否定しようと声を上げるのに、首を振って、噛みしめるように、言った。 「あのときは……ぼくがもっと、ちゃんと」  伊藤がときどき向けてくる視線の温度に、特別な意味を感じたことが、一度もなかったといえば嘘になる。  気のせいだ、考えすぎだと、そう思おうとしていた。そうやって、自分に都合の悪いことを、見ない振りをしていたから、手痛いしっぺ返しを食らった。 「はっきり拒むべきだったし、それに」  その続きを口にするのには、ためらいがあった。けれどこれ以上、朝永に隠し続けていられる気がしなかった。 「伊藤におかしな期待をさせてしまったのは、もともと、ぼくが……」  あの日、伊藤が思い詰めたような顔で口にした言葉。  ――ずっと、朝永のこと見てただろ。 「ぼくのほうが先に……お前のことを、そういう目で見てたんだ。伊藤が最初に、そのことに気がついた」  いつかの遠い日、朝永と抱き合う夢を見た。  朝永と毎日一緒に昼を食べるようになって、どれくらい経ったころだっただろう。目が覚めたら下着が汚れていて、夢の内容は、いやになるほどはっきり覚えていた。  自分の性的嗜好が、子どもの頃の出来事のせいで歪んだのか、生まれつきのものなのかは、いくら考えてもわからなかった。  食べることに気が咎めていても、腹が減らないわけもないのと同じように、嫌悪感があるからといって、性欲が消えてなくなるわけでもない。だけどそういう欲求を、よりによってほかのだれでもない朝永に向けている自分のことが、どうしようもなく気持ち悪かった。  もし伊藤が、ぼくが朝永に向けていた視線の意味に気づかなければ。そうしたら何かが違っていたんじゃないかと、いまでも思う。  ――俺を見ろよ。押川。  ――あいつには結衣がいるだろ。  伊藤が口にしたのは、そのころ朝永がつきあっていた女の子の名前だった。  そんなことは、伊藤から言われなくてもわかっていた。そもそも振り向いてもらえるかどうかは問題じゃなかった。何よりも、自分が朝永にそういう目を向けたこと自体が、自分で許せなかった。  だから自分の本音から目を逸らして、ただ必死になって伊藤の言葉を否定した。違う、朝永のことは大事な友達としか思ってないと。  だけど伊藤は、信じなかった。  当たり前だ。そんな見え透いた嘘を、信じてもらえるはずがなかった。朝永が、もっと食えよと罪のない心配顔で言うたびに、ぼくはいつも心のどこかで、歪んだ期待をしていた。ただ自分でそのことを、認めたくなかっただけだった。
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