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第8話

「それって、」  朝永がかすれた声を出した。  その手が迷うように伸ばされるのを押しとどめて、首を振った。 「ごめん」 「……なんで、謝るんだ」  どう話したらいいか、言葉を探しあぐねて、迷った。  自分で自分を気持ち悪いと思ってしまうことを。なじみ深い影のようにつきまとう羞恥と、身の置きどころのなさを。どう伝えればいいのだろう。 「ずっと……前から、ぼくはときどき」  震えそうになる声のトーンを、どうにか抑えて、できるだけ淡々と話そうとした。 「同性から、そういう目で見られることがあって」  自分におかしな気を起こしたのは伊藤がはじめてではなかったと、教えながら、朝永の目を見られずうつむいた。 「子どものころ、近所に」言葉を探しながら、チョコレートの甘ったるい味が、口の中に蘇る。「よくお菓子をくれる男の人がいて」  話のつづきを察したのか、朝永が小さく息を呑むのが聞こえた。だけどぼくは視線を上げずに、自分の膝を見たまま、話を続けた。  西日のきついとなりの部屋。いつ訪ねても室内に干しっぱなしにされた洗濯物。床の上に乱雑に積まれた本から、古い紙のにおいがしていたこと。男の顔はとっくに忘れてしまったのに、変に細かいところだけ、よく覚えている。 「脅されたわけでもなかったのに、ぼくは」  ――内緒だよ。  そう笑った男は、あくまで優しかった。服を脱がせるあいだも、何度もぼくの頭や背中を撫でて、こんなに痩せて可哀想にと言った。  可哀想にと。  そのころまだ射精もおぼえていなかったぼくの体は、最初のうちこそ、どこを触られてもただくすぐったいばかりだったけれど、じきに反応をみせるようになった。  彼自身は服を脱ぐことも、自分のものをぼくに触らせたりするようなこともしなかった。興奮して暴力をふるうことも、声を荒らげることも、一度もしなかった。恐怖や痛みを伴うようなことは何も。それが彼の性癖によるものなのか、それとも保身と臆病さのためだったのかは、いまとなってはわからない。たしかにわかっているのは、ぼく自身が何の抵抗もしなかったということだけだ。 「ぼくは自分からその部屋に行って」  繰り返される行為が、異常なことだと、子ども心にでも、わかっていなかったわけもないのに、ぼくは男が姿を消す直前まで、隣の部屋を訪ねることをやめなかった。 「お母さんには言わないでって……ぼくのほうから頼んだんだ。母は厳しい人で……ぼくが誰かに食べ物をもらうと、いやな顔をしたから」  ――意地きたない。  嫌悪のにじむ母の声。汚いものを見るような目。 「何歳の……ときの話だ」  ずっと黙っていた朝永が、絞り出すように、そんな問いを口にした。  九歳のときだと。言い終えないうちに、朝永が、怒りに震える声を出した。「そいつのこと、殺してやりたい」  とっさに顔を上げた。朝永はうつむいていて、表情は見えなかったけれど、握りしめた拳がわなないていて、握りしめた指が白くて、本気で言っているのだとわかった。 「昔のことだよ」 「だけどいまでも、そうやって!」  声を荒げたことを恥じるように、朝永は途中で一度、言葉を切って、震える息を吐いた。 「……そんな年のガキに、悪さをするようなクズのせいで」  聞いているほうが苦しくなるような、灼けるような声だった。 「なんでおまえが、いまでも苦しまなきゃいけないんだ」  胸が詰まった。  震える手で抱きすくめられて、朝永の顔が見えなくなった。  ぼくは、と言いかけて、自分が何を言おうとしたのかわからなくなる。  伊藤のことだってそうだと、朝永は掠れた声で言って、 「おまえはなんで、そんなふうに……人の身勝手は、許しちまうくせに、自分のことだけ、いつまでも責めて」  肩口につめたい感触がして、それでようやく、朝永が泣いていることに気がついた。  悪い、とくぐもった声で言って、朝永は顔を上げると、手の甲で顔を擦った。  拭う端から新しい涙がこぼれて落ちるのに、見ているのが苦しくなった。無意識に拭おうと、つい手を伸ばして、  その指先を、朝永がつかまえた。  指の背に押し当てられた、朝永の唇の感触に、状況もわきまえず、胸が震えた。 「おれの」  何かを言いかけて、だけど朝永は、次の言葉をなかなか切り出せないようだった。 「おれの、してきたことが」  ふいに弱くなった朝永の声に、どきりとする。 「ずっとおまえに、そいつのこと、思い出させてたのか……?」  頭を殴られたような気がした。 「違う」  とっさに否定したぼくの顔を、じっと覗き込んで、朝永は、信じていいのか迷うような顔をした。  自分で自分を殴りつけたかった。ぼくはどうしようもない馬鹿だ。自分の苦しさを吐き出すことばかり考えて、朝永に荷を負わせるようなことを言った。 「そうじゃない……朝永」 「だけど、おまえ」  首を振って、何かを言いかけた朝永をさえぎった。 「お前が……もっと食べろって、言ってくれるたびに、ぼくは」  朝永が、ぼくにものを食べさせようとするたびに、あの男のことを思い出さなかったと言えば、嘘になる。いつも、朝永は悪くないと頭でわかっているのに、自分ではどうしようもない羞恥や自己嫌悪につきまとわれた。だけどそれでも朝永の好意をはねつける気になれなかったのは。 「――生きてていいって、言われてる気がしてた」  朝永が、弾かれたように顔を上げた。 「なんだよ、それ」  思わずといったふうに強く肩を掴んだ朝永の手を、今度は、はねのける気になれなかった。 「ぼくは……食べることに」  朝永がきっと、とっくに気づいていただろうことを、それでもはじめて自分で言葉にした。 「ずっと、罪悪感があって」  食べることに――生きていることに。ずっと、気が咎めていた。  あんたさえいなければ、と。母がとうとう飲み込んだまま逝ったその言葉を、一度だって忘れたことはなかった。ぼくが生まれてきたこと自体が、何かの間違いだったのだと、誰に言われなくても、自分が一番よく知っていた。  母の、追い詰められた悲鳴のような声と、嫌悪に歪んだ顔を、いまでも覚えている。会ったこともなかった甥のために、住むところと生活費を世話してくれた伯父にとって、邪魔にしかなっていなかった自分の、身の置き所のなさも。  ――おまえがいてくれてよかった。  いつか聞いたその言葉は、朝永からしてみたら、なんでもない一言だったかもしれないけれど。 「お前に会わなかったら、ぼくは」  その先は言葉にならなかった。 「押川」  強い力で抱きすくめられて、残っていた最後の意地があっけなく砕けた。  朝永の優しさや責任感の強さに、自分がつけこんでいることは、自覚していた。そういう自分の卑怯さが、いやになるほどわかっていて、それなのに、この腕をふりほどきたくなかった。  この腕のなかで与えられる慰めが、いま、どうしても、ほしかった。  きっとあとで後悔するとわかっていても。  ぎこちなく背中に腕を回してすがりつくと、朝永は無言で腕に力を込めた。強く抱きしめられて息が苦しくて、そのことが嬉しくて、自分でも頭がどうにかしているんじゃないかと思った。  朝永の手が頬に触れて、顔を上げた。目を合わせると、朝永の目の端にはまだ涙の気配が残っていた。  一度唇を合わせてしまえばもう自制もどこかに飛んで、求めるように唇をひらいた。  角度を変えて、何度もキスをした。  頭の芯が痺れるようだった。ソファの背もたれから背中が滑って、座面に倒れ込みながら、朝永の首に必死でしがみついた。 「押川」  何度も呼ばれて、口づけられて、そのたびに胸が苦しくなった。  硬い感触が服越しに、太ももに当たるのが分かる。熱を孕んだ朝永の視線が、少しのためらいとともにベッドに投げられて、うなずきを返した。  足をもつれさせながら、ベッドに倒れ込む。触れあった部分がどこもかしこも熱くて、自分の心臓の音がうるさくてしかたなかった。本当はずっと、こうして触れられたかったのだと、否応なしに思い知らされた。  朝永の手がシャツをはだけて、唇が首筋に押し当てられる。自分だけが裸でいるのは恥ずかしくて、朝永のシャツに手を伸ばしかけたけれど、察したらしい朝永が自分で脱いだ。  いまでもときどき走っているという朝永の体は引き締まっていて、自分のみっともなく痩せてあばらの浮いた体が恥ずかしくなる。  その薄い脇腹を、熱い手のひらが撫でた。朝永は一瞬、痛ましいような顔をして、けれど何も言わず、そのまま愛しむように口づけを落とした。  窮屈になっていたスラックスの前をくつろげられて、下着の上からそこを撫でる手の熱さに、思わず呻く。朝永の唇が少しずつ下の方に降りていくのに、期待に体が震えて、 「あ……っ」  とっさに出た甘ったるい声が、自分の耳に飛び込んできた、その一瞬で。鮮烈に蘇ったのは、  ――内緒だよ。  チョコレート菓子の甘ったるい味、未熟な性器の反応を観察しながら、たしかめるようにくりかえし舐めた男の舌の感触、それにあられもなく反応したおさない自分の体。  瞬間的にわき上がってきた自己嫌悪と羞恥は、強烈だった。  身体がとっさに縮こまって竦むのを、自分の意思では止められなかった。 「ちが、」  はっとしたように体を離す朝永を、引き留めようと、その腕にすがりつく。 「ちがう、朝永」  必死に否定しても、体が冷えているのを、ごまかしようもなかった。ただ意味も無く、ちがうんだと繰り返すことしかできない。 「いやなんじゃないんだ」  朝永の手が、宥めるように頬を包んで、 「わかってる」  わかってるからと、二度繰り返して、朝永は悔やむような声を出した。「急いで、ごめん」  必死で首を振ってしがみつくと、朝永の手が、落ち着かせるように背を撫でた。 「しばらく、こうしてていいか」 「でも」  体を密着させていれば、朝永の体がまだ熱を帯びているのがわかった。応えられないことが情けなくて、苦しかった。 「いいんだ」  朝永の手がぼくの頭を抱き寄せて、自分の胸に頭を押しつける。目を閉じると、朝永の心臓の音が聞こえた。  朝永の手が、冷えた体を温めるように、ゆっくりと背をさする。作為のない、ただいたわるばかりの手に撫でられて、苦しくなる。そんなふうに優しくされる価値など自分にはないと、叫び出したい衝動に駆られて、それなのに、温かな腕をふりほどく気にどうしてもなれなかった。  その夜、ただ抱き合って眠った。  眠りは浅く、夜中に何度も目が覚めた。身じろぎをすると、朝永はそのたびにぼくの体を抱き寄せて、安心させるように背中をかるく叩いた。そうされると泣きたくなって、ごめんと、心の中で何度も謝った。
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