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第一話『 音 』

       部屋の中を騒がしくしておけば幽霊は現れない。  清めた塩で部屋の中に盛り塩をしておけば幽霊は現れない。  部屋の中に水をたっぷり注いだグラスを置いておけば幽霊は現れない。  部屋の難かに清酒をたっぷり注いだグラスを置いておけば幽霊は現れない。 「――どれも嘘ばっかじゃねぇかよぉ……」     ― 第一話『音』―      部屋中のありとあらゆる照明を点け、テレビの電源もノートパソコンの電源も入れた。  調べた方法でしっかりと清めた塩で、部屋の中の隅という隅に盛り塩をした。  たっぷりの水を注いだグラスと、たっぷりの清酒を注いだグラスをあらゆる場所に置いた。  そして、とある時刻になった瞬間。  彼は息を止めた。  しかし、日中に調べ抜いた通りに行った幽霊対策も虚しく、その日も再び、その怪音は鳴り始めた。 ――スス……スス…… ――タンタン……タンタン……  部屋の天井部――厳密には天井の隅――から、板を擦るような音と、板を叩くような音が、交互に聞こえ始める。  それらは、その板の存在を確かめるかのように、手のひらでそこに触れる事によって発されているらしき音だった。  そして、その音だが、何度か同じような音が繰り返し発された後には、まるで時間の経過を感じさせるかのように、発される音が変化するのだった。 ――スス……スス…… ――タンタン……タンタン…… ――コンコン……コンコン……  そうして次に聞こえてくるのは、――少し篭もり気味な――板をノックするような音だ。  それはまるで、空洞の内側から一か所の壁板をノックしているような、妙な音である。  そして更に、そうして聞こえてきたその音と共に、床を箒で掃くような、――恐らくは、手や肌ではない――別の何かが、その板と擦れるような音もし始める。 ――ザザッ……ザザッ…… ――コンコン……コンコン…… ――ザザッ……ザザッ…… ――コンコン……コンコンコン……  しかし、それから少し経過すると、そのノック音は止む。  そうすると、その場には、一時の静寂が訪れるのだった。  そんな事から、その間。  彼の部屋は、テレビから控えめに流れてくる深夜のバラエティー番組の音声と、ノートパソコンから控えめに流れてくる若者がやかましく騒ぐ動画の音声のみがある状態となる。  しかし、そんな怪音の鎮まりは、単なる嵐の前の静けさに過ぎない。  その次の瞬間に響くのは、思わず肩を跳ねさせてしまうような、激しい音だ。 ――バンバンッ!! 「ひっ……」  今夜で、この音を聞くのは何度目になるかは分からないが、彼は未だにこの音に慣れる事ができない。  そんな彼はその日もまた、突如鳴り響いたその音に、思わず小さく悲鳴をあげた。  彼は、次いで反射的に両手で自分の口を押さえる。  騒音も盛り塩も水も清酒も役に立たなかった。  だが、様々な対策の中で、“息を止めていれば幽霊に気付かれない”という方法だけは、どうやら効果を発しているらしかったからだ。  その為、彼はせめて幽霊に気付かれまいと、それからも必死で息を殺し続けた。  だが、先ほど口元を抑え込んだ手は、恐怖でカタカタと震えているようだった。  そして、彼はそこで、“己の手が恐怖によって震えている事”を自覚してしまった。  それは、彼にとって災難以外の何物でもなかった。  それを自覚したことにより、彼の恐怖心は余計に煽られる事となったてしまったのだった。  彼の心臓は、その音が脳に響くほどに激しく鼓動している。  出来る事ならば今すぐにでも布団を蹴り上げ、この部屋から逃げ出したい。  彼は、心からそう思った。  だが、少し前に観たホラー映画の映像がフラッシュバックしてしまい、それも叶わなかった。  そのホラー映画では、――布団を被った主人公のすぐ後ろに女の霊が控えている――という演出があったのだ。  それゆえに、もしも今の自分もその状況に陥っていたりしたら、布団を蹴り上げた瞬間に幽霊と鉢合わせてしまうかもしれない。  そして、そうなってしまったとしたら、きっとその瞬間に、あの映画の主人公のように無惨に引き裂かれて殺されてしまう。  それだけは嫌だった。  その為、そんな考えから、彼はその場から一切動けずにいたのだった。 ――バンバンッ!! 「……っ」  しかし、そうしてよからぬ事を考えている間も、あの音は天井から響き渡る。  まるで、手のひらでがむしゃらに板を叩いているような音。  そんな音が、彼の恐怖心を容赦なく刺激する。 (ちくしょお……俺が何したって言うんだよぉ……)  そんな中、彼はそう嘆きながら布団の中でスマートフォンを握りしめ、ひたすらに時間の経過を待った。 ――バンバン! ――バンバンバン!!  手のひらで暴力的に板を叩くような音。 ――バンバンバンバン!! ――バンバンバンバン!!  その音は、時間が経つにつれ更に激しさを増してゆく。  ――バンバンバンバンバンバンバンバン!! ――バンバンバンバンバンバンバンバン!! (もうやめてくれよぉ……) ――バン!!!!! ――バン!!!!! (誰か……) ――バンバンバンバンバンバンバン!!!!! ――バンバンバンバンバンバンバン!!!!!  (誰かぁ……) ――バンッ!!!!! (誰か助けてくれよぉ……っ!) ――バンッ!!!!! ――ガタンッ…… (あ……、や、やっとだ……)  そしてその日も、打撃音の昂ぶりが頂点に達したと思われるその時。  どこかに嵌っていた何かが、叩かれた勢いで外れたかのような音が聞こえた。 ――ガタッ……ガタガタッ…… (早く……) ――ゴンッ……ゴンッ…… (早く……早く……)  その次に、硬く重い何かが二つ、――あるいは二度――やや乱暴に床に置かれたような音がする。  そして、そのまた次に聞こえてくるのは、 ――ザザッ……ザザッ…… ――ザザッ……ザザッ……  という、大きく重たい何かが、床を擦るような音だ。  また、その音の特徴はそれだけではない。  その音は、今までの音とは違い、これまで音が発されていた天井端から、天井の中央へ向かって移動してゆくのだ。  何かが床の上で引き摺られてような音。  あるいは、何かが“上の階の床を這いずっているような”音。  激しい打撃音の次に聞こえてくるのは、そんな音だった。  そして、その音が部屋の中央まで移動すると、また更に新しい音が聞こえてくるのだった。 ――カリカリ…… ――カリカリ……  この音の正体は何か。  それは、この音を初めて聞いた時にすぐ分かった。  このアパートは木造で、それなりに造りが古く、床は畳だ。  つまり、この音は恐らく、何者かが畳を爪で引っ掻いている音だ。  だが、その音が鳴り出してからは静かなもので、それからはその音だけが部屋を満たすのみとなる。 (もう少し……もう少しだ……) ――カリ……カリカリ…… (早く……早く終われ……) ――カリ……カリ…… (早く消えてくれ……っ!) ――カリ……  そして、それからある程度の時間が経つと、次第にその音が途切れがちになってゆき、最後には全ての音が止み、ついに部屋に平穏が訪れるのだった。 ――……………… (………………終わった)  最初の怪音が鳴り始めるのは、深夜二時頃の事。  それからその音が畳を引っ掻く音に移り変わるのは、深夜二時半頃の事。  そして、怪音発生から約二時間後となる午前四時頃。  それが、その怪音が鎮まる時刻となっている。 「………………はぁあ……」  そんな午前四時頃。  その日もその時刻に全ての音が鎮まった事を悟った彼は、恐る恐る布団から顔を出すと、ひとつ弱々しい溜め息を吐いた。  体も呼吸もまだ震えている。  彼がこの怪音に悩まされ始めてから一週間も経っていないが、既に彼の精神は限界だった。  そんな彼は、鳥たちの声が聞こえ始める中、とある人物の顔を思い浮かべた。  それは、大学の勉強から人間関係の事まで何でも頼れる、とある友人の顔だった。 「もう無理……怖すぎ……」  そして、そう呟いた彼はその日。  その友人に、この怪音についての相談をしようと心に決めたのであった。 ――それが、2018年7月6日の明け方の事である。                    

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