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翌朝、担任から上履きが入荷したと聞いた俺は、一時限目が終わるや購買部へ急いだ。 この数日、窮屈さのあまり授業中に脱いでいて須崎に1度、踵を踏んで廊下を歩いていて風紀委員に2度、注意された。「3度目は反省文を書いて貰うよ」と言われ、書いて済むならまぁいいかと思った内心を「何なら校庭の草むしりもつけようか?」と見透かされた。それに、メモのことを早く鹿野に確かめたい思いが、この10分休憩の有効利用法99%を占めていた。 「鹿……、」 呼びかけて先客の笑い声に足が止まる。 須崎先生は微笑を絶やさない人だけど、今、鹿野と談笑している須崎は別人のようにほがらかで、いっそ、幼いほどに見えた。あの時と同じだ。鹿野が須崎を「ポエト」と呼んで、それを咎めた数日前の困ったような、拗ねたような、少し気恥ずかしそうな顔が脳裏によみがえる。 「わかった、わかったって。飲むよ……、飲むけど潰さないでくれよ?明日も授業があるんだから」 「そうこなくっちゃ。じゃ、放課後、先に店で待っているから逃げんなよ?」 「相変わらず、颯介は強引だなぁ……」 声を立てて笑う須崎は珍しい。 そして、鹿野の表情が柔らかい。第一印象の気怠い低音が少しばかり高くなって快活に良く笑う。まるっきりタイプ違いに思えた二人だけれど、学生時代から図書室で会う読書好きという接点以上に良い関係だったに違いない。 須崎も鹿野から沢山の感想メモを貰ったんだろうか。鹿野は須崎が書いた小説で沢山、笑ったんだろうか、楽しんだだろうか、時には泣いたのだろうか……。 ……だからって、それが何だと言うんだ。 「そうだ、ポエト。この『凪』ってペンネームの子を知らないか?」 鹿野の声にドキリとして息を呑む。興奮気味に発せられた『凪』とは俺のことだ。 「さぁ……、わからないな。どうして?」 え……? 須崎の反応の意味が分からない。だって、俺に文芸部を勧めたのは須崎先生だし、ペンネームの『凪』も先生から貰った……。 一昨年のオープンハイスクールで俺は須崎の公開授業中に倒れた。 後から保健室を訪ねてくれた須崎に母が持病がある事を相談して、それでも先生は「おいで」と受験をプッシュしてくれた。合格通知を受け取った時には病院にいて、検査入院のはずが体調不良で長引かせ、きっと、卒業式も入学式も欠席した生徒なんて俺一人だっただろう。 新担任の須崎が「私たちは縁が有るらしい」と病院を見舞ってくれて、気晴らしになれば、と原稿用紙と万年筆を置いて行った。どうせ、母が趣味をバラしたのだろう。病院生活の多かった俺には読書が身近で、中1の夏から自分でも小説を書くようになった。 皆より一週間ほど遅れて初登校した時には、 「インフルエンザで入学式を欠席とか、お前、ツイてないな~」 と、隣の席のヤツに言われ、苦笑いしているうちに運の無いやつキャラでクラスに馴染んだ。須崎も、もう少しマシな言いようは無かったのかと思ったけれど、病弱キャラは体育を休む口実にはなって、心臓病ほどセンセーショナルな印象を与えずに済んだ点では感謝している。もっとも、一斉に運動部に誘われたのには参った。 「時枝は体力つけようぜ。背も高いし体格いいんだから」 と『新入生は積極的に部活を!』がスローガンになりそうな活気のある校風だから度々、運動部に勧誘されて、避ける為にも早々に文芸部への入部届を提出した。ペンネームの『凪』は、その時に付けて貰ったんだ。 「海晴か、……晴れの海、穏やかな……、そうだ!『凪』はどうだい?」 辞書を捲る須崎の細くしなやかな長い指を鮮明に憶えている。あの時、須崎はこうも言った。 「ごらん。『風が止んで波がなくなり、海面が静まること』君の病気もそうなるといいな。教師陣は態勢を整えているが、大勢を相手にして目の行き届かない事もある。仲の良い友達や部長には話しておくのも良いかもしれない。辛い時は独りで頑張り過ぎないこと。いいね?」 俺は確か黙って頷いて、この人が担任で良かったって、ものすごくホッとした気がする。 それなのに……、 須崎先生は今、『凪』が誰だか判らないと鹿野に答えている。俺には真意を量りかねた。

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