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「入稿、近いんだろ?ちゃんと寝てる?」 渡り廊下をC棟へ移って図書室への階段を上がるのに軽く息を弾ませると、雨宮は俺の腰に手を添えてグッと押してくれる。この学校は天井が高くて解放感があるぶん、階段のアップダウンが少々キツい。 「もう脱稿したからヘーキ。いつもサンキューな」 「なら、良かった。じゃあさ、中秋の名月、一緒に見に行かね?」 いい場所を見つけたと雨宮は誘ってくれたけれど、 「お前から名月が出るとはね。残念だけど天気予報、雨だよ」 がっかりさせちゃったみたいだ。 予鈴と共に図書室に入ると入れ替わりに出ていく生徒の方が多くて、残ったのは政治経済の授業を選択している数十名だけだった。先生の手短な説明の後、ガラーンと広い中で『自主性に任せる』とは聞こえのいい授業が始まる。つまり、ほとんど羊の放牧に等しい。シープベルが鳴るまで各自、レポートを書く為の資料収集や話し合いを自由にしていいんだ。当然、雨宮にその気はないらしい。俺を促すと、恰好ばかりシャーペンとバインダーを手に図書室の奥へ奥へと、いくつも本棚を数えていく。この時間は他のクラスも合同だから雲谷もいて、示し合わせたように目的地に潜んでいるのを見つけると、秘密基地で合流するガキのようなウキウキした気分に俺は可笑しくなった。 「時枝くん、こっちこっち!」 なんて手招きをするから、雨宮がシッー!と人差し指を立て、先生の様子を確認する。 「すっげぇ悪いコトしてるみたい」 腹を抱えて大仰に笑うフリをして見せると、つられて二人も噴き出した。 冷房のために締め切られた窓の下に低い書棚があって、花瓶に生けられたリンドウの紫も何となく色褪せて俯きがちに見える。 「倒れそうだね」 と、雲谷が首をもたげた花を元に戻そうとするから、俺は邪魔な葉を間引いて固い蕾が少しでも日光を得られるように角度を変えた。そもそも、器のセンスが悪いんだ。 「雲谷ちゃん、例の本……」 雨宮に促されて、しゃがみ込んだ雲谷が文芸部誌の背表紙を追って迷わず一冊を取り出す。 「お前ら、ちゃん付けの仲だったんね?」 と、壁伝いに設えられた閲覧デスクの椅子を引くと、 「妬くな妬くな、一昨日、初めて話した仲さ。俺には海晴だけだよ」 なんて、無駄に色気を含んだ気色悪い声で道化た雨宮に抱きつかれた。 ぽかんとした雲谷は、みるみる真っ赤になって、 「去年のあの一作目、やっぱり実話だったんだね?」 なんてあたふたしている。その反応に『男に告られるって、どんな気分?』と訊かれた数日前を思い出し、そのままスライドするように颯介にキスされたあの『眼を閉じな』の催眠術に掛かるようなパチンの感覚を思い出してゴクリと息を呑んだ。 「あれあれぇ?海晴まで真っ赤……、何なのよ?」 「黙れ、赤くねぇ。……で、これが、どうしたって?」 雨宮に八つ当たりして雲谷の手から取った懸案の書をパラパラと捲ると、紙の湿った匂いがする。裏表紙を見ると、15年も前に発行された物らしい。時を止めて埃を積もらせてきた他の部誌に比べ、その本は出入りが盛んだったのか埃よりも角折れや擦れが目立って草臥れていた。 「ほら『うたうさぎ』さんの例の小説が入ったやつだよ。時枝くん、読んでないの?」 「あれか……、読んだ」 長い間、文芸部で語り継がれてきた正体不明のOBだ。 ペンネームを教え合わないとはいえ『うたうさぎ』ほど徹底して誰も知らないのは珍しい。 今となっては本当に部員だったのか、飛び入り参加だったのか、そもそも実在人物なのか、憶測が憶測を呼び、尾ひれがついて、15年間、案外いい加減に伝わってきたようだ。 チラリと雲谷を見ると、バツが悪そうに首を竦めて視線を泳がせる。どうせ、雨宮に歳の離れた兄がいるのを知って、情報の一つでも聞きだせないか押しかけたのだろう。 「あー……、理解したわ。雨宮も文芸部の推理ごっこに巻き込まれてんじゃねーよ」 「あれ、わかっちゃった?鋭いなー」 また例の「きゃはははー」にやれやれと苦笑いして、俺はテーブルに頬杖をつき、薄紫色の表紙を捲った。装丁はシンプルだが遊び紙に地模様の入ったトレーシングペーパーを使っていて、厚みからも当時の部員は今より多かったのだろうと窺える。部費が足りなくて生徒会に掛け合ってばかりいる俺たちとは雲泥の差の恵まれようだ。 「どうして皆、『うたうさぎ』に拘るんだろうな?」 ぽつりと言うと、ダンッと両手でテーブルを叩いた雲谷が興奮気味に言う。 「夢中にならない時枝くんの方が不思議だよ。物語の展開、描写、臨場感、心の機微、どれをとっても、同じ高校生とは思えない筆力だよ?」 「わかった、わかった」 俺の心に響かないのは読む力が薄っぺらで浅はかだからだ、と言われた気がした。共感は経験に基づく。ふと、颯介の言った『未経験を想像で補おうとする白々しさ』という評を思い出し、劣ると言われたようでイラッとした。つまり、俺には欠点の自覚が余りにありすぎた。

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