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第五話『 抑制の反動 』 下

   その日、瑞季(みずき)美鶴(みつる)と何気なく学内を歩いていた。  そしてその際、たまたま彼らと晃紀(こうき)が出くわした事から、瑞季は彼との初対面を交わす事になったのだ。  そしてその後の自己紹介の流れから、瑞季と晃紀は少し会話を交わすことになったのだが、その際に、この人物こそ――美鶴と体の関係をもっているというあの“(まどか)先輩”である――という事を知ったのだ。  そうして、そんな事がきっかけになり、瑞季はその日の晩から眠りにつこうと目を閉じる度、美鶴の情事の様子を想像してしまうという事態に悩まされ始めたのであった。  そしてそんな瑞季の欲情は、年頃らしく形を成すのも早かった。  それゆえ、瑞季は毎晩のように溜め息をつきながら深夜にトイレへ向かう日々が続いている。  瑞季はその事を経て、今度は美鶴に対する罪悪感をも募らせる有様になっていた。 「――でもさ、美鶴を好きになっちまった自分を後悔するのはしょうがねぇけど、その気持ちを忘れられねぇ自分を、そこまで酷く責める必要はねぇんじゃねぇの」 「……」 「お前は美鶴を傷つけたくて好きでいるわけじゃねぇだろ。むしろ、美鶴を良く思ってるから好きになったんだ。それにそうして悩んでるのも、あいつの事を大切に想ってるからだろ。だったらそんな自分を悪く言う必要はねぇよ」 「でも、このままじゃ体が先に動きそうで……そんな事になったらまた美鶴を怖がらせることになります。だから、出来ればこんな気持ち早くなくしたいんです。……なんでこんなに忘れられないんでしょう」 「……ンー、なんつぅか(さくら)ってさぁ、今まで何日か水泳に没頭しただけで“好き”って気持ちを捨てられたわけ?」 「え? ……はい、そう、ですね」 「ふぅん」  晃紀は瑞季を“桜”というあだ名で呼んでいる。  これは初対面を交わした直後に晃紀がつけたあだ名であった。  そんな晃紀は、己の問いに不思議そうにしながらそう答えた瑞季を見るなり、少し考えるようにして沈黙した。  その様子を見ながら不安そうにしている瑞季を一瞥し、晃紀は言った。 「もしかしたら桜は、まだ本気で誰かを好きになったことはねぇのかもな」 「え、どういうことですか?」 「ンー、なんつぅんだろうな。そりゃもちろん、桜はこれまで付き合った相手のことをいい加減にみてきたわけじゃねぇとは思うけど、その“好き”は友達の延長くらいの好きだったんだろうなって思うんだよな。――つまり、これまでの桜の好きは、“恋”にはなってなかったんじゃねぇかなって。それか、本気の恋じゃなかっただけ、――とかな」 「本気の」 「そ。多分、桜は今回、初めて本気の恋して、初めて本気で人を好きになったんだよ。ある意味初恋だな、初恋」 「……」  考えるようにして黙ってしまった瑞季に苦笑し、晃紀は言葉を続ける。 「あんな、実らない恋なんてしちまったら、最低でもそれくらいは悩むもんだぜ? ま、今の美鶴が初恋相手ってのは運が悪かったなって感じだが、美鶴からも聞いたろ。あいつが怖がってんのは未来だ。今のあいつにとって、“好きだ”って告白は“未来でお前を嫌いになる”って予告されてるようなもんなんだ。だから、お前から恋愛感情を持たれるのを怖がってる。それだけだ。あいつはお前に好かれることを嫌がってるわけじゃない。だから、気持ちを伝えられないってのは辛いかもしれねぇけど、その気持ちは、自然に消えるまでは持ってていいんじゃねぇの」  そこまで言うと、晃紀はそこで一つ言葉を区切り、しばし沈黙を置いた。  そんな晃紀の言葉を受け、瑞季は考えるようにして沈黙を返した。  晃紀は、そんな瑞季へひとつ問うた。 「――お前はさ、未来で美鶴を嫌う予定でもあんの?」  すると、晃紀のその言葉を受け、瑞季は慌てるように言った。 「な、ないですっ……そんな事……、美鶴には言えなかったですけど、絶対ないって思えるんです。むしろ、何があったとしても、俺は美鶴を嫌えないと思います」 「……美鶴がお前とは絶対に付き合えないって言っても?」 「はい。――というか、そんなのは嫌う理由にならないです」 「そか」  晃紀の問いに瑞季が即答した様子を受け、晃紀は満足そうに笑み、言葉を続けた。 「なら、大丈夫だよ。もしお前が感情抑えられなくなって、あいつのこと抱きしめて思いを伝えちまったらそん時はそん時だ。そしたら今度はあいつに思い知らせてやればいい」 「思い知らせる、ですか?」 「そ、超簡単だぜ。お前の本心を知ったあいつが不確かな未来想像して怯え出したら、そんな未来は来ないって言ってやればいい。そんでそれから先もずっと、お前があいつを嫌わないままに過ごして思い知らせてやれよ。美鶴の事を恋愛感情から好きになっても、例え美鶴が恋人になってくれなくても、一生嫌わない奴だってちゃんといるって証明してやればいい。それだけだ。それすればお前は、その先もずっと美鶴のそばにいられる」 「……」 「ど? これならどぉ~しても恋心を捨てられないお前サンにも簡単に出来るだろ?」 「あはは、はい、なんかできそうな気がしてきました」  満足げにそう言った晃紀の言葉を受け、瑞季もおかしそうに笑いつつそう答えた。  その日、ひとつ晃紀に礼を告げて寮室に戻った瑞季は、心が少し軽くなったような気がしていた。  そんな中、部屋で眠っている美鶴の顔を見るとやはり愛しさがこみあげてきて、胸が苦しくなった。  瑞季はそこで、本当に耐えられなくなったらその時は本心を告げてしまうのも良いかもしれないと思った。  やはり告白をするのは緊張するが、それでも耐えられなくなったら言わずにはいられないだろう。  だが、もし耐え切れず告白してしまったなら、今度は美鶴の恐怖を取り除く為に過ごそう。  晃紀の言葉により、自分の恋心と少しだけ和解できた瑞季はそう心に誓った。  また、それと同時に、出来る限りはこの想いを隠し通そうとも誓ったのだった。  だが、そんな瑞季の心を試すような事態が、その数日後に訪れる事となった。  そしてその日、瑞季は文字通り“魔が差した”行いをしてしまったのだった――。 「ほら美鶴(みつる)~朝だからな~起きろ~」  瑞季(みずき)はその日、いつもと同じようにほとんど寝ている状態の美鶴を引き起こした。 「ん~……」  美鶴はその間、返事ともつかない鳴き声のような返事をした。  瑞季はそんな、ほとんど睡眠状態の美鶴の返事を聞きながら、美鶴の手を引き、彼を洗面台の前まで連れてゆく。  そして、洗面台の前でまだこくりこくりと舟をこいでいる美鶴に苦笑しながらも、美鶴が洗面台のレバーを引き、水で顔を洗い出したのを確認し一息つく。  美鶴はここまでくれば、後はこの未覚醒のままでも不思議と朝の支度をし始めるのだった。  ただ、もちろんこれでも美鶴は完全には起きておらず、半分寝たままだ。  瑞季が話しかけても、“ん~”と鳴くだけで、それ以外の言葉は発されないのだった。  そして、そんな朝の美鶴にもすっかり慣れた瑞季は、美鶴がどこかにぶつからないかを見守るという名目のもと、思う存分に美鶴を眺めるのが日課になっていた。  だがその日、突然そんな瑞季の心にとある考えが降り立った。  そして、瑞季はその思い付きのままに、大して考えもせぬまま美鶴に話しかけた。  実は会話が成立しないだけでなく、この状態の美鶴は“何を言われたかも覚えていない”のだった。  だからそれは、その事を知っていた瑞季の悪戯心からの行動だった。 「なぁ、美鶴。俺さ」 「ん~」  瑞季の言葉に反応を示した美鶴だが、案の定それだけのようだ。  彼は相変わらず支度を進めながらゆらゆらとしている。 (切り出し方はきっと、この話題がいいかもな……)  そして、その美鶴の様子を確認した瑞季はそんな事を思いながら、“本番”に向けての予行練習を始める。 「俺、別れたんだ」  美鶴はここで何を言ってもどうせ覚えていない。  だから、今から言う事も、美鶴には言葉としては届かないはずだ。  いつもそうだった。  だから今だってそうに決まっている。  だから何を言ったって、きっと大丈夫だ。 「その……、前付き合ってた後輩とな。――なんか色々あってさ。でさ、俺……、それでフリーになったからかわかんないんだけど……――」  そうして思いを実際に言葉にしてみると、本番でもないのに鼓動が高まり出す。  本当はずっとこの気持ちを伝えたかった。  伝えたくてずっと苦しかった。  だが、限界が来るまでは耐えなければと思っていたから耐え続けてきた。  でも、今くらいは許されるだろう。  だって今の美鶴には、この言葉は届かないのだから――。  だが今はそれでいい。  美鶴から返事をもらえなくてもいい。  美鶴が覚えていなくたっていい。  自己満足で十分だ。  これはただの練習だから。  だからせめて今だけは、言葉にするのを許してほしい。  きっと言葉にすれば、この苦しみも少しは和らぐだろうから――。  瑞季はひたすらに心で弁明を連ねながら、その先の言葉を紡ぐ。 「――俺、やっぱり、お前の事が」 「なんで?」 「えっ……」  瑞季は突然発された美鶴の声に驚き、全身が痺れるような感覚を覚えた後に固まった。  そして、自分から血の気が引くのを感じた。  瑞季の言葉を遮るようにして発された声は、先ほどまでとは相反したものだった。  その声色は鋭く、怒気すらもはらんでいるように聞こえた。  その声色に気圧された瑞季は、驚き戸惑う中、一向に返す言葉を見つけられずにいた。  するとその間、いつのまにか目の前まで来ていた美鶴により、瑞季は突然胸倉を掴まれた。 「ねぇ、なんで?」  美鶴は俯いたまま、いつもよりも少し低い声で静かにそう言った。  瑞季の心臓は痛いほどに重く鼓動する。  呼吸がうまくできない。 「みつ――」 「なんで……っ」  瑞季の胸倉を掴んだまま、責めるようにそう言った美鶴は瑞季を見上げた。  その美鶴の顔を見た瑞季は、また言葉を失った。  瑞季を見上げる美鶴は、これまでにないほど悲痛な顔をしている。 「……っ」 「ねぇ答えてよ。もんちゃん。なんで別れたの?」 「そ、それは……」  瑞季はその美鶴の言葉を受け、動揺しながらもなぜ美鶴がこんな表情をしているのか理解した。  きっと美鶴は今、瑞季が恋人と別れたのは自分が一因になっていると勘違いしているのだ。  だからこうして責めたてるような口調で尋ねてくるのだろう。  だがそれは違う。  瑞季が後輩と別れたのは美鶴のせいなどではない。  それに、瑞季が美鶴への恋心に気付いたのは、彼と別れてからなのだ。  だから、美鶴が原因になるなどありえないことなのだ。  今はまずそれを説明しなければ。  それは誤解なのだと伝えなくては――。 「なんで……なんでそんな事したの……もしかしてそれって、俺のせいなの……?」  答えない瑞季に対し、美鶴はそう言った。  徐々に弱まってゆく美鶴のその声は震えていた。  そして、美鶴はそう尋ねたのを最後に、また顔を伏せてしまった。  瑞季の制服を掴む美鶴の手も、その声と同じく震えていた。  その手はもう、力すら入っていないようだ。 ――美鶴のせいなんかじゃない。それは誤解だ。  脳内でそう訴えながら、瑞季はやっとのことで言葉を発した。 「……ごめん」  だが、そんな瑞季がこの世に紡いだその言葉は、瑞季の本意に反したものだった。 ――違う。それは誤解なんだ。美鶴のせいじゃない。  そう否定しなければいけないのに、口から出たのはまるで美鶴の誤解を肯定するかのような謝罪だった。  それだけではない。  それに続いて自分の口から出てゆくのは、またも余計な事ばかりだった。 「ごめん、俺、美鶴は好きだって言われるのが怖いんだって、ちゃんとわかってるよ……わかってるんだけどさ……」  違う。  今言うべき言葉はそんなことじゃない。  そんな言い訳、今は必要ないんだ。  今必要なのはその言葉じゃない。 「それでも俺は……」  これはまだ言うべきじゃなかったはずだ。  これ以上言ったら駄目だ。  ただ怖がらせて苦しませるだけだ。  嫌な思いをさせるだけだって、わかってるだろ。  今じゃないのに。  わかってるはずなのに――、 「俺、どうしても……」  この気持ちはどうしても――、 「お前のことが好きなんだ……」  抑えられないんだ――。 「ごめん……美鶴……」  

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