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第六話『 初めての恋 』 上

      「さーくらくーん」 「うおっ」  寮棟のエントランスに設けられた自販機前で立ち尽くしていると、突然背後から声がかかった。  瑞季(みずき)がそれに驚き振り返ると、そこには晃紀(こうき)がいた。 「せ、先輩」 「よ、まさに絶不調って顔してんな」 「えっ」  瑞季は今の心境を顔に出したつもりはなかったのだが、どうやら晃紀には悟られてしまったらしい。  つくづく勘の良い男である。 「そ、そう見えますか……」 「あぁ、もう枯れ切ってるって感じだぜ? どした? またなんかあったか」  そんな晃紀の言葉を受け、瑞季は返答に窮した。  すると、そんな瑞季の様子を察した晃紀は、ひとつ苦笑して言った。 「ははぁ、つまり、――なんかあった――みてぇだな」 「……その………………はい」 「俺が聞いていい事なら、話聞くぜ?」  その日、どうしてももう少しだけ寮室に帰る時間を遅らせたかった瑞季は、そんな晃紀の言葉に礼を述べ、その厚意に甘える事にした。 ― 第六話『初めての恋』 ―  その日の朝の事。  瑞季(みずき)は、自らの想いを美鶴(みつる)に告げてしまった。  するとその後、美鶴はいくつかの悲しげな訴えを述べた後、その場にしゃがみ込んでしまったのだった。  そして、瑞季に顔を見られないように伏せたまま、それから少しの間、美鶴は静かに泣いた。  恐らく美鶴は、自分のせいで誰かが不幸になった事に耐え切れなかったのだろう。 ――なんでそんなことしたの  瑞季がその誤解を解かぬままにしてしまった事により零れたその言葉から、美鶴のその気持ちは容易に察する事ができた。  だが、瑞季はそれにすらも謝罪を述べる事しかできなかった。  瑞季もまた、そんな美鶴の様子に動揺し、混乱してしまっていたからだ。  そして、時間だけが過ぎて行った。  だが、それからいくら時間が経とうとも、瑞季の心には後悔の念が積もるだけで、その場で彼の誤解を解いてやる事はできなかったのだった。  そしてその後、一応は涙を止める事ができたらしい美鶴は、顔を隠しながらではあったが部屋に戻っていった。  また、黙したままではあったが、瑞季もそれに続くようにして部屋に戻った。  すると、ベッドに腰掛けた美鶴が、自分のスマートフォンのディスプレイを見ながら瑞季言った。  「もんちゃん。もう時間ヤバいから、教室行きなよ」  その声にはまだ、先ほどの様子の名残があった。  瑞季はその声を聞いて胸が痛んだ。 「その、美鶴は……?」  そんな美鶴に対し、瑞季は恐る恐る尋ねた。  すると美鶴は、相変わらず目を伏せたまま答えた。 「俺は今日休むよ。今、教室行ける感じじゃないし。先生には体調不良って事で連絡するから」 「あ、あぁ……でも」  そして、そうは言うものの、そんな様子の美鶴が心配でならず、瑞季は様子を伺おうとした。  だが、そんな瑞季を遮るようにして、美鶴が言った。 「俺は大丈夫だから……ごめん。今は、一人にさせて」  そんな美鶴のその言葉は、瑞季の心をちくりと刺した。  瑞季は、その痛みに項垂れるようにして言った。 「……わかった。その、悪い……」 「ううん……。行ってらっしゃい」  そして、そんな瑞季の謝罪には頷いたものの、美鶴が瑞季の方を見る事はなかった。 「……ん」  また、瑞季はその美鶴の見送りの言葉を受け、自分がその場にとどまる事を拒まれているのを悟った。  その為、何かあればすぐに呼んでくれとだけ言い残し、手早く部屋を出たのだった。 ("何かあったら"……? どの口が言うんだよ)  そしてその後。  教室へ向かう中、瑞季は先ほど美鶴に言い残してきた言葉を思い返し、自分を叱責した。  瑞季はその時。  人生で一番と言っていいほどの後悔をしていた。  自分の下らない思い付きと過信から、また美鶴を傷つけ、今度は涙まで流させてしまったのだ。  しかもその涙は、悲しみの涙であり、更には、まぎれもなく瑞季のせいで流れ落ちたものだ。 (俺、やっぱ最低だな……)  瑞季が初めて見る事となった美鶴の涙は、瑞季にとって最低最悪の原因で流れた涙となったのだ。  その事に対し、瑞季は酷く自責の念を抱いた。  だが、今の彼にはどうする事もできはしなかった。  それゆえに瑞季は、その後もただただ自責の念に駆られながら、教室へと向かったのであった。  そして、その日の授業をすべて終えたところで、瑞季はすぐにでも寮室に戻ろうと思った。  その日はもちろん部活があったのだが、今日はそれどころではないという気持ちがあり、練習を休む方向に思考が向いていた。  だが、部長に欠席の連絡を入れようとスマートフォンを取り出したところで、ふと思いとどまった。  もし自分が、部活をサボってまで美鶴の為に部屋に帰ったとしたら、美鶴は何と言うだろう。  美鶴は、瑞季がどれほど部活優先の生活をしているかを知っている。  その上で今日の部活を休んで寮室に戻るという事は、美鶴にとって更にダメージになるのではないか。  瑞季はそう考え、眼前からスマートフォンを下ろした。 (……駄目だ。それじゃあまたヤな思いさせるだけだ……)  そして瑞季は、欠席を取り止め、通常通りに部活に参加する事にした。  瑞季はそこで、自分に言い聞かせるようにして思う。 (それに……、きっと美鶴も、今はできるだけ俺に会いたくないだろうしな……)  だが、そうして自らに言い聞かせる為とはいえ、考え至ったその事に瑞季は落ち込んだ。  つまりそれは、――自分はとうとう美鶴に会いたくないとまで思われるほどになってしまった――という事なのだ。 「はぁ……」  瑞季は、そんな事実に改めて心の痛みを感じながら、がっくりと肩を落とし、部室へと向かったのであった。       「――そりゃあ大失敗だな」 「はい……」  瑞季(みずき)はその日。  泳いでいる間すら失せる事のない後悔の念を抱きながら、放課後の練習を終えた。  そして、その帰り道での事。  なんとなく、美鶴(みつる)に拒まれる存在になってしまったという考えがまた瑞季の中に沸き起こった。  そんな事から瑞季は、不意に寮室に帰るのが恐ろしくなり、帰るに帰れなくなったが為に、それからの時間を寮棟のエントランスで潰していたのだ。  そして、そんな時に瑞季に声をかけたのが晃紀(こうき)だった。  そんな晃紀は、そうしてすっかり落ち込んでいた様子の瑞季を見るなり、そこで再び相談役を買って出てくれたのである。  そして、そこで瑞季から今朝方の出来事を聞いたところで晃紀は苦笑し、それは大失敗だ、と感想を述べたのだった。 「一番の失敗は、お前がちゃんとその場で誤解を解かなかったことだな」 「はい……」  瑞季は、晃紀のその的確な指摘に素直に頷いた。  すると、それに頷くようにして晃紀は続ける。 「まぁ、気持ちが焦っちまってその場ではどうしようもなかったのは分かる。――でもよ、お前もこのままじゃ駄目だって思ってんだろ?」  そして瑞季は、それにしっかりと頷いた。 「はい、思ってます」  すると、晃紀は満足げに笑んで言った。 「じゃ、今すぐ帰って誤解を解かないとな。怖ぇと思うけど、いくら時間潰したってもっと怖くなるだけだ。頑張ってこい」  そして、そう言った晃紀は、己の手を瑞季の肩にのせ、そのままぐっと力を込め励ますようにしてその肩を緩く揺すった。  瑞季は、そんな晃紀の言葉に今一度返事をして、頭を下げた。  そして、その後。  二人は肩を並べてお互いの寮室へ向かった。  そして別れ際に今一度、瑞季は晃紀へ礼を述べた。  すると晃紀はそれに優しく微笑み、おう、とだけ言って自らの寮室へと戻って行った。  また、瑞季もその背を見送るなり、ゆっくりと深呼吸をし、寮室への廊下を歩き出したのだった。    今朝に瑞季が寮室を出ようとした時の事。  美鶴はベッドに体を横たえていた。  瑞季は、そんな記憶から、 (もしかしたら、今日はもうそのまま寝ちゃってるかもしれないな)  と何気なく思い、そうである場合を考え、なるべく物音をたてないようにして寮室のドアを開けた。  だが、そんな瑞季の目に映ったのは、丁寧に整えられた空っぽのベッドであった。  瑞季はその事に少し動揺した。  だが、動揺したのはその事にだけではない。  瑞季が帰ったその部屋には、何やら食欲をそそるような香りが満ちていたのだ。  瑞季はその事に更に動揺したが、とりあえずはとそっと荷物を置き、そのままキッチンスペースの方を覗いてみた。  すると、そこには夕食の準備をしているのであろう美鶴の後ろ姿があった。  瑞季は、その後ろ姿を見るなり黙したまま立ち尽くした。 (……美鶴)  そんな美鶴に、何と声を掛ければよいか分からなかったのだ。  だが、そのようにして瑞季が立ち尽くしていると、その気配に気付いたのか、美鶴が不意に瑞季の方へと振り返った。  そして、そこで瑞季の姿を確認した美鶴は、少しだけ目を見開いた後に微笑んで言った。 「わ、びっくりした。おかえり、もんちゃん」  だが、その微笑みは、昨日まで見せていたものとは違い、物悲しそうな弱々しい微笑みだった。  瑞季は、その頬笑みに胸が痛むのを感じ、同時に激しい罪悪感を抱いた。  そして、そんな罪悪感に背を押されるようにして、瑞季は謝罪した。 「美鶴、その、ほんとごめん」   すると、そうして頭を下げる瑞季を見た美鶴は、黙ったままカチリと火を止め、洗い場に寄り掛かるようにして瑞季へと向き直った。  瑞季はそれを確認するなり姿勢を戻し、そんな美鶴へ更に言葉を紡ぐ。 「言い訳はしない。ただ、ひとつだけ誤解させてる事があるから、それだけ聞いてほしい」  すると美鶴は、未だ悲しげな表情のまま首を傾げて復唱した。 「……誤解?」  瑞季はそれに力強く頷き、言った。 「あぁ。――その、後輩と別れたのは、美鶴の事を好きになったからじゃないんだ」 「……」  美鶴は、その瑞季の言葉にひとつだけ瞬きをした。  だが、その先の言葉を待っているのか、言葉は発さずに瑞季を見つめ返した。  瑞季はそれを受け、言葉を続ける事にした。 「後輩と別れたのは5月のはじめくらいなんだけど、俺が美鶴を好きになったのはそれより後のことなんだ……。だから、後輩とは、美鶴のせいで別れたんじゃない。――誤解させるような言い方して、ほんとごめん……」  すると、そんな瑞季の言葉を受け、美鶴は目を伏せつつも安堵したようにひとつ息を吐いては言った。 「そっか……。――それ、本当なんだよね。嘘じゃ、ないんだよね」  瑞季は、そんな美鶴の目をまっすぐに見て言った。 「もちろん嘘じゃない。別れた理由もちゃんとあるし、その時に送ったメッセージも残ってるんだ。信じるのに証拠が必要なら、ちゃんと見せるよ」  そんな瑞季の言葉に、美鶴は静かに首を振った。 「ううん、大丈夫。もんちゃんがそこまで言うんだから、信じるよ」 「……よかった、ありがとう」 「うん……」  そして、美鶴はそこでひとつ頷くと、また何かを考えるようにして黙し、再び目を伏せた。  瑞季はさりげなくその美鶴の顔を見たが、やはりまだ悲しみを帯びているように見えた。  そんな表情を見て、瑞季が何を言うべきかまた迷っていると、美鶴がゆっくりと口を開いた。 「あのさ……もんちゃんは、俺と付き合いたい――んだよね」  瑞季は、その言葉に少しだけ動揺した。  やはり、そういった話題となると緊張感が拭えない。  だが、瑞季はその時。  その事に関しては、既に自分の中にとある答えを見出していた。  それゆえに瑞季は、その答えをしっかりと美鶴へ届ける事にした。 「……その事、なんだけどさ」 「うん」 「俺は確かに美鶴の事、人間としても、友達としても好きで、今は恋愛的に好きだとも思ってる。でも、今日一日考えてみて分かったんだ。――俺さ、例え恋愛的にお前の事が好きだったとしても、――だからってどうしても付き合ってほしいってわけじゃないみたいなんだ」 「え……?」  瑞季の言葉を受け、美鶴はただ不思議そうに首を傾げた。  瑞季はまた、そんな美鶴にゆっくりと言葉を紡いでゆく。

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