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53.テスティエにて4

 ふたりの前に姿を現したダグラスは、もうラフな格好に着替えていた。白いTシャツに穿き古したジーンズ。足元はサンダルだ。 「なんだ。ベイビィがシノを送って行くのか」 「いえ。違います」  ぼんやりとした灯りの下。店にいるときとは全く違う見慣れないふたりの距離に違和感を覚えたダグラスは、違うと即答した篠原の表情を見てピンとくるものがあった。だからその場から篠原を遠ざける。 「気を付けて帰れ。シノ。明日また会おう」 「――はい。失礼します」  ダグラスは歩き出した篠原に付き添い、一緒に目の前の通りまで出た。居酒屋が立ち並ぶ方向へ歩いて行くこともあり、街灯は充分に明るいので大丈夫だろうと思う。篠原は一礼すると、いつものペースで部屋のある方へ向かって歩き出した。ダグラスはその背を笑顔で見送る。  振り返ると、すぐ後ろに森山がいた。森山は同じ出口から出て、店の向かいにある寮へ帰る。 「残念だったな。ベイビィ」  おもむろにそう言うと、森山が顔をしかめた。 「……悪趣味ですね」 「仕方がないだろう。聞こえたんだ」  聞くつもりはなかった。本当に偶然だが、シェフが独立する際にギャルソンを連れて出ることはよくあることだ。ただ、篠原がそれに応じることはないだろう。 「シノは渡せないが、ベイビィに渡したいものが別にあってな」  篠原はテスティエの大事なマネージャーであり、弟のような存在である。おいそれと愛弟子であろうと連れて出ることを許すわけにはいかない。 「部屋に寄ってくれ」  それだけ言うと、ダグラスは離れになっている自室まで歩き出す。森山は何も言わず、その後ろをついて行くしかない。  すぐ傍とは言え、愛弟子の森山でもダグラスの部屋に入ることは滅多になく、年に1度あるかないかだ。2LDKの間取りは知っているが、入ったことがあるのはリビングだけで他の部屋はドアさえ開けたことがない。  ダグラスに促されて森山が部屋に入ると、右手すぐの部屋のドアが開けられた。部屋が明るくなると、そこに置いてあるのが全てワインセラーだとわかった。 「これは……」  ダグラスがワイン好きなのはもちろん知っている。ただ、個人で所有するにはかなりの量が置いてあり、ほとんどのワインセラーが満杯の状態だった。 「ベイビィに。これを」  ダグラスは1台のワインセラーの前でそのドアを軽く叩いた。部屋の1番手前に置いてあるそれも、ほとんど空きはない状態だ。 「お前が俺のところに来てから、少しずつ買って置いてあったものだ」 「……これを、全部?」 「そうだ」  赤、白、ロゼ。シャンパン。スパークリング。種類豊富に集められた世界中のワイン。 毎年、愛弟子がいつか独立する日のために買い取り、1本、または2本のワインを取り置いていた。それを渡す日がようやく訪れたのだ。 「全部ベイビィが飲んでもいい。店で提供してもいい。好きに使え」  森山がぱっと見ただけでも、そう簡単に手に入らないラインナップが揃っていることがわかる。一体、どれだけ価値のあるものがそこにあるのか考えるだけで、眩暈がしそうな森山だ。 「ボス」  独立したいと申し出たとき、驚いた顔をしたものの引き止められることはなかった。「そうか。とうとうその日が来たのか」と。感慨深げに零して笑ったダグラスの顔を森山ははっきりと覚えている。もしかしたら引き止められるのではないかと思っていたのに、とうとうそんな言葉を聞くことはなかった。 「……今まで、うちから独立したみんなにもこれを?」  そう聞いた森山を笑って、ダグラスは「いや?」と首を横に振った。 「お前だけだ」  ダグラスの愛弟子は、森山史貴だけ。 「お前だけだよ。ベイビィ」  迎え入れたのに、送り出すことばかり考えて過ごした。弟子とはそういうものだと。  いつものようににっこりと笑ったその向こうにあるダグラスの気持ちを理解できず、森山はその場をすぐに離れることができずにいた。
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