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 一年前の契約を思い出し、俺はダイニングのテーブルに座ってため息をついた。黒縁メガネを押し上げ、分厚い手帳を広げた。  たった一年で、歌番組にまで出演できるほどの飛躍ぶり。年が明けて、2月には初のツワーが待っている。  ツワーの合間を縫って新曲の収録、秋にはアルバムを出す予定も。ボイトレ、身体づくり、身体のメンテナンスをも仕事として考えるならば、今の柚希には休みなんてないに等しい。  契約してから最初の3年は、ボイトレ、身体の調整期間にあてるつもりだった。さらに2年つかって、少しずつ曲を作り、外回りの営業を入れて、知名度をあげていく。YUZUKIを5年かけて、完成形にもっていく予定だったのだが。 「たった一年か」  俺はテーブルに肘をついて、両手で顔を覆った。一年では早すぎる。きちんとした基盤が出来てなければ、崩れるときはあっという間だ。この世界が厳しい。  天才だからって、ずっと生き残れるわけじゃない。何が引き金で、闇に落ちて、這いあがれなくなるか、わからないんだから。  基盤、土台はしっかりさせたいのに。俺の意思とは無関係で、YUZUKIは売れていく。  テーブルに置いてあったスマホが鳴り出した。『長瀬誠一郎』と表示がある。事務所の社長だ。 「はい?」 『良い子は寝た?』 「ええ。たぶん、すぐに部屋を出たからわからない」 『セックス以外は、申し分のない子なんだけどねえ』 「それ、長瀬が言うか?」  ツライ思いをしているのは俺だ。長瀬じゃない。どんな関係か、は知ってるだろうが、言われたくない。  社長として、長年の俺の友人として。長瀬は公私ともに、すべてを知っているから。長瀬が事務所の社長でなかったら、俺はもうこの世界から足をとっくに洗っていた。 『新曲のデモを聞いた。なかなかいいんじゃないか? ハルトから、お前だけ……この曲のゴーサインを出してないって耳にしたが?』  ハルトめ。まだ時間をかけろって言ったのに。  俺は心の中で悪態をつく。 「この曲は柚希には早い」 『そうか? しっかり声が出てるじゃないか。伸びもいいし。さすが、お前が見つけた子だけある』 「ダメだ。この曲を新曲にもってくるなら、半音さげるべき。柚希の今の音域では、無理がある。外では歌えない」 『半音? すでに原曲より3つも下げてるんだろ?』 「原曲はケイの声で作ってある。柚希には高すぎる」  電話の向こうで、くくくっと喉を鳴らして笑っている。 「なにがおかしい?」と俺は不機嫌な声を隠さずに出した。笑われるような話はしてないはずだ。 『いや、なに。名前、言えたなって』 「は?」  俺は眉間に皺を寄せた。 『「ケイ」って。お前がお前じゃなくなってから、一度もその名前を口にしなかった。それがさらりと。あいつのために作った曲だって』 「事実を言っただけだ。あのキーでは柚希には無理だ」  長瀬には痛いところを突かれた。確かに。俺は今まで、名前を濁してきた。言いたくないから。思い出したくもない名前だったから。
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