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 それがさらりと名前が出てきた。嫌悪もせずに。ムカつきもしなかった。 『お前がお前に戻るのも、遠い未来じゃなさそうだな』 「そこは期待するな。もう、俺は辞めた人間だ。戻る気はない」 『なのに、やたらと口を出しているじゃないか、ハルトに』 「マネとして、柚希の喉を心配しているんだ」  俺は立ち上がると、ダイニングから離れて、リビングの窓へと足を進めた。レースのカーテンしかかかっていない大きな窓は、外の夜景を綺麗にうつしていた。  昔の栄光で買った高級マンション。ローンはない。一括購入。こんな人生になるなんて思ってなかったから。今の俺には不釣り合いなマンションだ。  社畜の平社員がこんな豪華なマンションに住んでいるなんて。  俺は苦笑した。昔の栄光にすがって生きているようじゃ、俺もまだまだ、だ。 『半音さげてもいいが、曲の良さが失われるってハルトが言ってたが?』 「ああ。だから、今の柚希には無理だと俺は言ってるんだ」 『どうにか合うようにできないのか?』 「無理だ」 『お前ならできるだろ? 曲のイメージを変えずに、柚希にあうように編曲しろ』 「ソレ。命令?」 『ああ。そうだな。辞めた人間とかほざきやがってる奴には、命令が一番効果がある』  俺は鼻で笑う。  スマホを持っていないほうの手のひらを広げて、見つめた。  俺に編曲をしろ、と。やっていたのは昔の話だ。もう……出来ない。曲も作れないのに。 『新曲はこれでいく。柚希の喉が心配だとグチグチ言うなら、耀がどうにかしろ。それはお前にしかできないことだ。耀だけの仕事だ』  やれよ、と長瀬が捨て台詞をはいてから電話を切った。 「無茶ぶりしやがって」と俺はつぶやいて、リビングの奥にある鍵をかけた部屋のドアを見つめた。  あそこに行けば……。  ごくっと唾を飲み込んで、唇を噛みしめた。  8年前に鍵をかけて封印した部屋。柚希のために。俺が……やるのか? 俺にできるのか。 「ケイの後釜くん、見つけたとは噂では聞いてたが……。あれじゃあ、すぐに使い物にならなくなる。耀、お前にしては焦って外に出しすぎたな」  歌番組のリハ中のYUZUKIの歌を聞いていたのだろう。ソロ活動をしているケイのマネージャー・白井 春臣が俺の隣に並んで立つと腕を組んで口を開いた。 「焦ってない。ケイの後釜でもない」  リハが終わった柚希が俺のもとに戻ってくる。俺と白井の雰囲気を見て、柚希の歌い終わった後の満足そうな笑顔がみるみる消えていくのがわかった。 「ほう。ならなんでHANTERのストック曲を使い、バンドが元HANTERメンバーなんだ? 今までお前が育ててきた子たちは一切、HANTERの影はなかったのに」  春臣が横目で俺を見て、にやっと口元を緩めた。  春臣の言葉が聞こえていたのだろう。柚希の顔がこわばって、俺の隣に立っている春臣を睨みつけていた。 「社長の指示ですから」  俺はまっすぐに前を見て、怖い顔をしている柚希を見つめた。横にいる春臣の顔は極力見たくない。  8年前の過去で追った傷がうずいて、感情の制御ができなくなりそうだ。春臣にされた裏切りの傷は、今も治ってない。
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