8 / 62

08

耀side 「遅い! 何をやってたんだ? 10分って言ってあっただろ」 「3分遅れただけ」  柚希が悪びれた様子もなく、水滴のついてるペットボトルを持って控室に戻ってきた。  テーブルにペットボトルを置いて、衣装のかかっているハンガーラックの前に立った。  ペットボトル? 水滴? 冷たいのか?  俺はそっとペットボトルを触って温度を確かめた。ヒヤリと指先が冷たくなった。 「柚希、これを飲んだのか?」 「口をゆすいだだけ。ネズミがいたから、追っ払いたくて」 「は?」  ネズミ? 何を言っているんだ? ネズミを追い払うのに、水が必要とは聞いたことがない。 「大丈夫。ちゃんとやるから。そこにいると、本番前に抱きたくなるんだけど?」  ちらっと柚希が俺を見てくる。シャツを脱ごうとしている柚希を見てから「悪い」と控室を出た。  廊下には表情がくぐもっている長瀬が立っていた。長瀬がスーツのポケットから、一枚の紙を出して俺に見せてきた。 「名刺? 白井さんの?」 「柚希が戻ってくるのが遅かった理由が、コレ」 「は?」  俺は名刺を受け取ってから、長瀬の顔を見た。長瀬が暗い顔をしている。 「あいつの性欲の強さを逆手にとって、女を好きなだけ抱いていいからって事務所移籍の勧誘してた。うちよりも給料倍額、柚希専用のスタジオに自宅を用意して、あいつのキーのあった好きな歌をうたわせるって。女とのスキャンダルも、白井がすべて処理するっていう条件で」 「盗み聞きを? もちろん、柚希の間に入って白井さんとの交渉を阻んだよな?」  長瀬が「するわけない」とさらっと答えた。肩をすくめて笑い、「選ぶのは柚希だ」と俺の肩に手を置いた。 「出ていく人間を引き留めはしない」 「柚希の才能は……」 「そう思っているなら、耀が引き留めればいい」  長瀬が廊下を歩きだす。俺は背中を見送ってから、壁にもたれかかった。  まさか……。春臣が、また? ケイを奪っていったように、今度は柚希を? 俺から奪っていく? なんで……、どうして。 『耀は才能を持っている。私のために、もっと……』  そう言って俺を持ち上げるだけ持ち上げて、あっさりと捨てた。俺を。  才能を見出され、認められたのはケイで俺じゃなかった。春臣のために書いた曲は、HANTERのために使われることはなかった。  ケイと春臣で移籍した事務所で、そのうちの一曲がカタチになった。それから定期的にケイの作曲した曲として、世に送り出されている。  今度は柚希を、奪われるのか。  女を好きなだけ抱いていい? 女が抱けなくて、仕方なく俺を抱いている柚希には好条件じゃないか。スキャンダルはすべて処理をする? そんなこと出来るのかよ。  いや……あっちは大手事務所だ。金もあるし、権力もある。スキャンダルを潰すくらいできるのだろう。 「くそっ」  選ぶのは柚希だ、長瀬の言葉がこだまする。確かにそうなんだろうが。選ぶのは柚希だが。
いいね
笑った
萌えた
切ない
エロい
尊い

ともだちとシェアしよう!