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 俺は起き上がると、テーブルの端に置いてあるウェットティッシュに手を伸ばした。 「いらない。スタジオの前にトイレあるから。そこで洗ってく。すべて舐めたいけど、時間が……」と柚希が肩を竦ませて、残念そうな表情になった。 「あ……あ、あ」  まだ声が出せない。柚希に伸ばす手も震えている。歌ってこいとか、いってらっしゃい……とか。あとでスタジオに行くから、先にいけ……とか。言いたいことはあるのに。どれも言葉にはならなかった。 「見てて。桜庭さん……僕の本気を」  ぶっ壊すから、とぼそっと低い声で柚希が言ったが、俺には意味がわからなかった。 「これは……すごい。まさに天才だな。あの短時間でこの変わりよう。ゾクゾクする」  舞台袖で柚希を見ている俺の隣に並ぶと春臣が、瞳を輝かせていた。俺はちらっと春臣を見ただけで、視線を元に戻した。  本番前、少し震えが残るものの声は戻ってきたが。あまり話したくない。いつ声がまだ、嗚咽になってしまうか。怖いから。8年前も、話せなくなった。医師いわく、俺が話したくないって思ってるからだって。  あの時は誰とも話したくなかった。誰が信用出来て、頼っていいのか。わからなくなった。ケイを信頼してた。春臣を尊敬してた。すべてを預けてもいいって思ってた。  週刊誌で知らされるケイの移籍。確認しに、事務所にいけば……もうマネージャーの春臣はいなかった。携帯に何度電話しても通じなくて、しまいには番号も変わってしまった。  テレビでしか見れなくなったケイ。あの歌声はもう、俺たちのためには歌ってくれない。ケイのために作った曲はたくさんあるのに。ケイはもう戻ってこない。  残された俺は孤独でどうにかなりそうだった。いや、実際どうにかなったんだけど。  残されたのは俺だけじゃないのに。俺だけが壊れた。ハルトもルイもショウゴも、春臣とケイに捨て駒にされたんだ。 「長瀬が立ち聞きしていたようだから、もう耳にしているだろうが。あの子はもらう。うちで育てたほうが伸びる」  俺は視線だけを動かして、春臣は睨んだ。腕を組んで、俺は凄みを出したつもり、だ。 「ケイとお前の違いを教えてやる。そうやって感情が顔に出るところだ。柚希の移籍を聞いて、ギリギリの精神なんだろ? 8年前がフラッシュバックして、声も出せなくなったか? 1年近く引きこもって治療したんだってな? 長瀬のおかげで見捨てられずにここにいられることを感謝するんだな。普通なら使い物にならなくなった作曲家など用済みだ。耀は脆い。その脆さが作曲に活かされる。だが長く使うには、不必要だ。今後、作れなくなるのが目に見えてわかったから、捨てた。ケイは私と耀の関係を知っていて、私を落とそうとした。そのバイタリティーを見込んで、連れて行った。お前は脆いんだよ」  柚希の演奏が終わり、会場内の拍手喝采が舞台袖にも聞こえてきた。薄暗い舞台袖。次に歌う歌手が、発声練習をしてから明るい舞台へと歩みだしていくのが見えた。俺はその歌手を目で追った。 「ふん、反論しないところを見ると、声……やっぱり出なくなってるわけか」  クスクスと春臣がおかしそうに笑う。  何がおかしいんだ。俺は苦しいのに。普通にしていたのに。普通にできない悔しさと苦しさは、誰にもわからない。
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