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「私がいなければ耀は……くはっ」  急に苦しい声をあげた春臣に、俺は驚いて舞台にむけていた目を戻した。歌い終わったばかりの柚希が、春臣の首に手をかけてドンドンと壁際へと押していた。その横顔は鬼のようだった。目が吊り上がっており、さっきまで脚光をあびて歌っていた歌手とは思えない表情だった。  俺は壁際と移動している二人を追いかける。全身で怒りを表している柚希の背中を俺は見つめる。  やめるんだ、と言いたいのに。声を出すのが怖い。  壁に追い詰めた柚希は、親指で春臣の喉仏をぐいぐいと押していった。 「貴様、桜庭さんに何をした?」 「くっ。んあぁ」と春臣さんが苦しい声をあげて、柚希の腕を叩いていた。 「柚希、やめるんだ」とやっとの思いで出した声で、柚希の手が緩んだ。春臣は首を自分の手で抑えると、激しくせき込み始めた。  柚希がすぐに春臣の胸倉をつかむと、キスでもしそうなくらいな距離まで顔を近づけた。 「移籍の件、いまここで、はっきりと断ってやる。俺の歌を聞けばわかると思ったんだけど。馬鹿そうだから、口で言うよ。僕は、移籍、しない」  え? 移籍しない? 女を抱けるのに? 好きな曲も歌えるのに? 「忠実な犬だ。随分と仕込まれてるようだ」 「ネズミ野郎に言われたくないね」  柚希がニヤッと笑う。  ネズミ? 『口をゆすいだだけ。ネズミがいたから、追っ払いたくて』  あれって、春臣のこと? 何をしたんだ? 「捨て駒扱いされてるって親切で言ってやってんのに」 「そんな親切はいらねえんだよ。言っただろ? 僕は捨て駒で構わないって。全部、知ってる。わかってる。理解も納得もして、僕はここにいる。だから、一年でここまで這いあがってきた。あんたをぶちのめすために」  柚希が春臣の胸倉から手を離した。フッと春臣に向かって笑うと、柚希が舞台裏へと突き進んでいった。  俺は春臣に軽く頭をさげてから、柚希の背中を追いかけた。ずんずんと速足で進む柚希は控室の扉を荒々しく開けると、中に入った。 「……あの野郎。ふざけたマネしやがって」と声をあげて、柚希が折り畳み椅子を蹴り上げていた。 「あらあ、柚希がご乱心で」 「うるせえよ、おじさん! おじさんの呑気な顔を見たくねえ、出ていけ」 「『おじさん』?」と俺は柚希の言葉に反応した。  長瀬が「あー」と気まずそうな顔をして、こめかみを掻き始めた。 「もう……いいんじゃない? 全部、話しても」  俺の後ろから入ってきたハルトが、フッと笑った。今夜の譜面が入ったクリアファイルをテーブルに置いて、「昔の勘が戻ってきたみたいだし?」と言葉を足した。 「ハルト?」  俺は首をかしげて、ハルトを見やった。ハルトが肩を竦めて、「僕の口からはちょっと。当人たちに聞くといいよ」と長瀬を見て、「ね」と笑ってから部屋を出ていった。 「ったく。だから外では『社長と呼べ』と常日頃から指導してやってたのに。お前は短気だから」
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